死神のノアエティルアと、高校生彬の織り成す、コミカルでハートフルな学園ストーリー。
青い空が視界一面に広がっていた。雲はない。中天の太陽が、見上げた空の、唯一青ではない部分だった。
青い空を見上げるのは少女である。少女は、空に浮かんでいた。
夏の眩しい光を拒絶するかのように、黒い外衣を身にまとっている。漆黒の外衣から覗くのは、まがまがしい、新月のような鎌を携えた手と、頭部のみである。
「私は――」
彼女の、人形めいた容貌を見て、心をざわめかさずにいられる者など、この世に幾人も存在しないであろう。
穏やかな風にただよう長い髪は、日にさらされてなお黒い。逆に肌は透けるように白かった。水面にそっと浮かぶ花びらのような唇、すっと通った鼻梁、そして、異様なほど大きな瞳。見る者を魅了せずにはいられないであろう、美しい少女だった。
「私は――」
彼女は呟く。高く、清浄な声は、彼女を取りまく不思議な風に舞って、鈴の音のように幾重にも重なり震えた。
「私の名は、ノアエティルア……死神、ノアエティルア……」
長い睫の奥に覗く瞳は、髪や服と同じ夜の色である。その瞳が、何かを求めるように空をさまよう。
「私はノアエティルア。冥界の住人。この世界での死神。私は……」
『なにを呟いている、ノアエティルア』
その声がノアエティルアを正気づかせた。
「……なんでもない」
『そうか? 緊張しているのではないか? なにしろ、これが初めての仕事だからな』
「……ユルガシィだって初めてのくせに」
ノアエティルアは、口許に耳を寄せていてさえなお聞き取りにくいほどの、ごく小さな声でつぶやく。それでも、彼女の『言葉』は確実に相手に伝わる。二人は、声で意思を伝えているのではなく、互いに思念を送りあうことによって、会話をおこなっていた。強く思えば、それは相手に届いた。
『僕は緊張などしない。死神らしからぬ反応だからね』
「私も緊張なんてしないわ」
『君はおおよそ死神らしくない』
ユルガシィのその言にノアエティルアは反駁しようと思念を紡ぎかけたが、それは続く彼の言葉によって妨げられることとなる。
『無駄話は終わりだ。もうすぐ時がくる』
心なしか硬度を増したその口調に、ノアエティルアは口をつぐんだ。
――そう、今は、心を落ち着かせなくては。
気負いや緊張などは、直ちに自分の中から排除しなくてはならない。失敗など決して許されないのだから。
意識を、これから自分が行うべきことに集中させる。そうしながらノアエティルアは、今まで感じていたはずの緊張が、いつの間にか嘘のように消え去っていることに気づいた。
もしかして彼は、自分の緊張をほぐしてくれたのだろうか?
まさか。その考えは彼女の中ですぐに打ち消される。あの、ユルガシィが? まさか。ありえない。
ノアエティルアは下降していく。見下ろす先には住宅街が広がっていた。新旧とりどりの家々が雑多に立ち並び、様々な色や形をした屋根の反射する光が、ノアエティルアの目を細めさせる。
そしてノアエティルアは、自身を別の空間に入り込ませる。今の彼女を視認できる人間はいない。魂を視ることができないのと同じように。
地上十メートル上空でノアエティルアは停止した。首を巡らして、まもなく『対象』を発見する。
「ユルガシィ。対象を確認したわ。最終調整を」
ほとんど間をおかず、思念が返ってくる。
『調整完了。時間、空間共に誤差の範囲。問題なし』
「では、このまま待機します」
閑静な住宅街の一角で、小さな男の子がボール遊びをしていた。五歳か六歳ぐらいだろうか。一人で、壁に向かって子供用のサッカーボールを蹴り出している。
庭から張り出した枝が、子供を直射日光から庇ってはいたが、それでも夏のさなか――しかも真昼である。暑くないわけがない。汗まみれになりながら息を弾ませている男の子は、しかしそんなことはまったくおかまいなしに、ボール蹴りにただひたすら夢中になっている様子である。
ノアエティルアの目――夜を切り取ったかのように黒い双眸ではない。もう一つの、冥界でも死神だけが持つ第三の目(サード・アイ)が、子供の放つ光を見て取っていた。子供の魂は強い、色のない光を発していた。それは彼の、ごく近い将来の死を意味した。
(この子の魂を冥界に連れ帰るのね)
思いながら、ノアエティルアは手に持つ鎌を握り直す。
直接の執行者である彼女には、冥界にいざなう魂についての詳しい情報は一切与えられない。それがなぜなのか、理由を彼女は知らなかったし、また、興味を覚えることもこれまでなかった。
五・六歳ほどの歳に見える目の前の男の子は、これまでどのような人生を送ってきたのだろう。今始めてノアエティルアはそれを考えた。どんなものを、そのつぶらな瞳で見てきたのか。
(きっと、楽しかったよね……)
いまの子供の表情を見ているとそう思えた。
『ノアエティルア、さっきから思念に雑念が混じっているぞ』
その『声』にノアエティルアはうろたえた。ユルガシィと思念を繋いでいることを、完全に失念していたのだ。まさか、聞かれていたのだろうか。いま考えていたことを、全部?
『当然だろう。これほどうるさくてはな。どうしたのだノアエティルア。君は死神として、まったく意味のない思考をしていた』
そう聞いてくるユルガシィの思念には、なんの抑揚もない。思っていることではなく、ユルガシィはいつも純粋な『言葉』を送ってくる。
『ごめんなさい。あなたの言うとおり、私は緊張しているのかもしれない』
ノアエティルアは、自身もユルガシィがするように『言葉』を送る。伝える言葉のみを心の表面に浮かび上がらせ、その他のものは注意深く底に沈めた。
『どちらにしても、この任務を終えたら、精神改造を受けることを考えたほうがいい』
『そうね』
背筋をかけのぼる戦慄を必死で押さえ込みながら、ノアエティルアはどうにかそれだけ答えた。
彼は、本気で言っているのだろうか?
この場合の精神改造とは、死神としての適正を向上させるために、精神に手を加えることを指す。何事にも動じず、使命を完遂させることにしか興味をしめさない、完全なる死神。しかしそれは自己を失くしてしまうのと同じではないかと、ノアエティルアは思うのだ。
彼は変わってしまった。表面上はあくまで冷静さを保ちつつも、ノアエティルアは思わずにはいられなかった。
ユルガシィは変わってしまった。数年前、教師に勧められるがまま精神改造を受けたあのときから、彼は彼女の知っている彼ではなくなっていた。感情をほとんど表に出さなくなった――というよりも、あるのかさえ疑わしい――彼の、死神に対する適正は、確かに向上してはいた。あらゆる試験で上位の成績を納めるようになり、以前のように怒りっぽくも、涙もろくもなくなった。しかし、だからこそ彼は、もはやノアエティルアにとってのユルガシィではなかった。
『予定時刻まで、あと100秒』
その『声』に、ノアエティルアは鎌を握りなおす。いまは余計なことを考える時ではない。集中しなければならなかった。死神としての初めての任務はもう始まっていた。
「――あ」
どうしても高まっていく緊張の中、ノアエティルアを、不意に激しい、恐怖にも似た感情が襲った。
はたして自分は、任務を遂行できるのだろうか。もしも失敗すれば、子供の魂はこの世界を彷徨うことになる。還れなくなる。自分のせいで、昇華できなくなるのだ。
その不安は、ノアエティルアの心を急激な勢いで浸食し始めた。責任は重すぎる重圧となり、彼女を押し潰そうとする。ノアエティルアは叫び声を上げそうになる口に手を押しつける。しかし、そう――もしも失敗したら?
『ノア、落ち着くんだ。だいじょうぶ。今まで何度もシミュレーションしたじゃないか。君にできないはずはない』
「……ユル、ガシィ……?」
ノアエティルアはその名を呼んだ。それは、懐かしい――あまりにも懐かしい『声』だった。
(ノア、見てごらんよッ)
(ちょっと待ってよッ。僕はキミみたいには速く走れないんだから)
(ノア)
(ねえ、ノアエティルア――)
それはもう、いつの間にかどれほど遠い昔のことになってしまったのだろう。
共に遊び、未来の話をしていた――夢と未来が同一のものであると、信じて疑いもしなかったあの頃――それはあの頃に聞いていた、彼の優しい声だった。
「――ユルガシィ?」
もう一度その名を呼ぶ。彼女の身に襲いかかる懐かしさの奔流が、どうしようもなく声を震わせた。
『なんだ』
しかし、その返答は彼女の期待していたもとは違った。耳慣れた、鉄のように無機質な声。
「……ううん。なんでもない」
急激に冷めていく心と共に、首を振る。今の声は幻だったのだろうか。
(そうなのかもしれない)
混乱しすぎて、私は幻を聴いたのかもしれない。
本当に私は、死神には向いていない。
しかし、それでもノアエティルアはその精神を回復させていた。理性と冷静な判断力は今、彼女の傍らにある。
「ありがとう」
ただ一言、そう言った。
『あと50秒だ』
ユルガシィが静かに告げた時、ノアエティルアは死神としてそこに存在していた。その顔は澄み切って、冷たかった。不必要な感情は、心の奥に沈み込ませてある。もう、初の任務だという気負いも、子供に対する憐憫の情もない。このまま静かに、使命を果たしてしまえばいい。奥底に沈んだ思いが、そうささやいた。
あと30秒。
疲れを知らないかのように遊んでいた男の子は、ふとボールを蹴る足を止め、壁にもたれかかる。そして何度か大きく深呼吸すると、ボールを手に持ち、リフティングを始めた。 あまり長くは続かず、五回ほども蹴れば地面に落としてしまうが、子供は飽きもせず繰り返す。四度目の挑戦を始めたとき、運命の時まで、10秒を切ろうとしていた。
けたたましいベル音がした。子供の背後の家からである。開いた窓のそばで、目覚まし時計が持ち主に時刻を知らせているのだ。強力なベル音に驚いたのか、男の子はボールを大きく蹴り外してしまう。
十字路の方に転々と転がっていくボールを追いかけて、男の子は走った。十字路を越えたすぐ向こうは、ゆるく長い下り坂になっている。その手前でボールを止めないと、ボールはどこまでも転がっていってしまうだろう。
ボールを追いかける男の子は、ぎりぎりまで気づくことができなかった。家の塀が十字路の視界を悪くしていた。強力なベルの音が、その音を聞こえにくくさせていた。転がっていくボールが、男の子に他のことへの注意を忘れさせた。
だから、その瞬間まで気づくことができなかった。十字路に飛び出して、激しいブレーキ音に横を向いた男の子が見たものは、真っ直ぐ突っ込んでくる白い鉄の塊だった。
「まさか!?」
ノアエティルアは叫んだ。今の今まで冷静に状況を見守っていた彼女は、ここに来てその仮面を取りはらった。
(なぜ? あり得ない――!)
「ユルガシィ!?」
ノアエティルアはユルガシィを呼ぶ。
『明らかに予定外の出来事だ』
ユルガシィでさえ、冷静ではいられないようだった。その『声』から、混乱が伝わってくる。
『間違いない。これは、『事故』だ』
「事故」
ノアエティルアは息をのむ。
「事故!」
『事故』――運命の作る歪み。起こるはずのない出来事――。
子供が十字路に飛び出すまでは予定通りだった。そのまま制限時速を超過した乗用車が、子供の命を奪っただろう。あとは肉体から離れた魂を、ノアエティルアが持ち帰ればいい。
その結果をこそ、ユルガシィは先見していたはずだ。決して、目の前の光景などではなく。それなのに!
「なぜあなたが飛び出すの!」
男の子と乗用車の間に、一人の少年が飛び出していた。少年は信じられないものを見るように、突っ込んでくる乗用車を凝視している。飛び出したはいいが、それ以上体が動かないようだ。
ノアエティルアはその少年の魂を見る。やはり透明な光は放たれていない。つまり、まだ死ぬ予定ではないということだ。
しかし、この状況で少年が死を避ける方法などありようもない。
このままでは『事故』が起こってしまう。
「だめっ」
何とかしなければ。なんとか……!
『ノアエティルア、なにをっやめ――!』
思念の声が止める間もなく、実体化したノアエティルアは十字路に飛び出していた。

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