突然彬にキスをしてきた美しい少女、ノアエティルア。彼女は自分のことを、死神と名乗るが……
第一話 KISS
1
青い空が見えた。
網戸を通して吹いてくる風が、唯一心地よかった。半分閉じられた薄いカーテンが浮き上がるたびに、身を起こした彬に夏の日差しを浴びせかける。どこかで風鈴が鳴っていた。それをかき消すかのように、蝉が声をあげ始めた。
風鈴の音と蝉の声、それにもう一つの音が重なっていることに彬(あきら)が気づいたのは、目が覚めて、日光が三度ほど顔を舐めてからだった。それが自分の荒い息だと気づくころには、めくれ上がったカーテンの向こうから、更に四度目の太陽光線が降り注いでいた。
「……あれ……?」
声は掠れ、震えていた。息が荒い。ふと目を落として、胸に手を当てていたことに気づく。よほど力を入れていたらしく、こわばった腕を胸から放すのに多少の努力が必要だった。
呼吸を整えつつ、首を巡らせる。そのころにはようやく彬も、状況が把握できるようになっていた。
六畳の畳敷きの部屋に彬はいた。彼の部屋である。真ん中に敷いた布団の上で、今は汗まみれの体を起こしていた。
夜はそれなりに過ごしやすくもあるが、昼間ともなるともろに直射日光を浴びるこの部屋は、少しばかりの風など慰めにもならないほど気温を上げてしまう。
彬は時計を見る。午前十一時。すでに柱の温度計は目を疑わずにはいられない事実を指し示している。顎を滴り落ちる汗を適当に拭うと、彬は一刻も早く部屋から出てしまうことにした。
部屋と比べるとかなり涼しく感じる廊下に出ると、何度か大きく息をして、ひんやりした空気を肺に送り込む。そうして、ようやく人心地ついた気がした彬は、大きく伸びをした。
「ックウ~ッ。ああ、よく寝た」
まだ多少こわばりの残る腕を回しつつ、シャワーでも浴びようと風呂場に向かう。築四十年の古い一軒家だが、風呂場は数年前に改装されていた。それ以前はシャワーどころか、薪で焚くゴエモン風呂だったのだ。
私立高峯学園高等部普通科に在学して二年目になる久瀬彬は、今、夏休みまっただ中という環境にいた。特に忙しい身でもないから、起きる時間を気にする必要はない。寝る時間も同様である。つまり、目が覚めたのがいつもより全然遅い午前十一時だろうが何だろうが、慌てる理由も必要性もありはしないのだ。のんびりシャワーでも浴びて、それから遅い朝食をとればいい。
「けど、こんなにぐっすり眠れたのは久しぶりだな」
ふと首を傾げ、一瞬立ち止まる。
――なにか、夢を見ていた。そんな気がした。
しかし、それがどんな夢なのか、どうしても思い出すことができない。
ま、いいかと、彬は再び歩き出す。
胸の鼓動が治まってくると、寝過ごしたのも汗をかいたのも、けっこう良かったのかもしれないと、彬は思えるようになっていた。
これほどすっきりした気分なのは久しぶりだった。このところずっと、眠れない日々が続いていたのだ。
理由はわかっていた。
「あの、事故のせいだよな……」
二週間ほど前、交通事故があった。彬の目の前でだ。加害者は二十代半ばの男であり、時速を数十キロオーバーした車に乗っていた。
被害者は六歳の子供である。
気がつくと、彬は車の前に飛び出していた。今思い出してみても、どうしてそんな行動を自分がとったのか理解できない。まったくそれは、突発的な行動だった。
その直後のことは覚えていない。気がつくと白い部屋にいた。
白い部屋――そのイメージは、まだ目覚めきっていなかった彬の脳神経を、急速に呼び覚ましていった。記憶の奔流に襲われながらも服を脱ぎ、風呂場に入る。冷たいシャワーを浴びながら、その鮮烈な刺激に応えるように、十日前の記憶を彬は鮮明に思い起こしていた。一つきりの窓にブラインドの掛かった、暗い、白い空間。ベッドが二つあって、一つは無人で、もう一つに自分自身が横たわっていた。
そこは病室だった。
2
十日前の記憶は、病室で始まる。病室で目が覚めてすぐ、彬は混乱した。
(ここはどこだろう――)
答えはすぐに見つかった。彬には見覚えがあった。
(病院だ、ここは……)
目が覚めて病室にいる。それは、彼がこれまで何度も空想の中で思い描いてきた光景だった。ただし空想では、目が覚めるのは彼ではない。
「おかあ、さん……」
彬はつぶやいた。
空想の中で、目を覚ました母は言う。
――彬、心配かけてごめんね。お母さん、もう大丈夫だから。いなくなったりしないからね……。
自分を慰める、それは偽りの声だった。あのとき結局、母は目を覚まさなかったのだから。
周囲のものが突然明確になったような気がした。それで妹の存在にも気がついた。一つ年下の妹は、彬のベッドにもたれ掛かるようにして眠っていた。
目を閉じて、顔をこちらに向けて眠る妹の無防備さに一瞬息を詰め、そんな自分に腹立ちを覚えながら首を振ると、妹を呼び起こす。
目が覚めた妹に抱きつかれて彬はもがくだけもがいたが、どうやっても離れるつもりがないのを悟ると、観念してしばらくじっとしていた。ようやく落ち着いた妹から、自分が三日間眠りっぱなしだったこと、海外に単身赴任中の父親は、明日には一時帰国できそうだということ、車を運転していた男は全治三週間だということを知らされた。
「……あの子は?」
そう訊くと妹――みずきは、視線を避けるように目を伏せた。しばらくしてから、ためらいがちに、左右に首を振る。
「……そうか」
「お兄ちゃんが悪いのじゃないよッ。だってお兄ちゃんは、あの子を助けようとしたんでしょ? あのひと――車を運転してた人がそう言ってた。お兄ちゃんが、子供を助けようと飛び出してきたって……」
その時になって、ようやく自分の体に注意がいって、彬は確かめるように体のあちこちを動かしてみた。
特に痛むところはない。
「どこもケガしてないよ。奇跡だって、お医者さんが言ってた。いちおう、検査はするらしいけど……」
「奇跡……か」
子供はただ遊んでいて、運悪く車に撥ねられ死んでしまって、車の前に飛び出した自分にはケガ一つない。これも奇跡のうちに入るのだろうか。だとすると、神様はよほど意地が悪い。
「あいつ、あんな道で、どうしてあんなにスピード出してたんだろう……」
「病院に向かってたんだって。奥さんが病院に運ばれて、妊娠九ヶ月で……子供が産まれそうだって聞いて……」
訊くんじゃなかった。彬は窓の方を向いた。肩越しに、押し殺した嗚咽が聞こえてくる。みずきが泣いているのだ。どうしていいかも分からず、彬は不器用に、ブラインドから透けて見える空を眺める。
(もし……)
考えずにはいられなかった。もし、あのとき自分が飛び込まなければ、運命は違った結果を紡ぎはしなかっただろうか。それでも奇跡は、子供には訪れなかったのだろうか。
その問いに答えがないのは分かりきっていたので、決して口にはしなかったし、なるべく考えないようにしようと努めた。それに、こんなことを言ったら、きっとみずきはまた泣いただろうし。
ただ、なんだかやりきれない、後ろめたいような気持ちはなかなか払拭されず、退院した後も彬の心を暗くし続けた。
3
そして、退院して十日が過ぎた。病院からもうこなくていいといわれたのが、おとといのことである。
「……それにしても」
シャワーを止めながら彬は呟いた。
「なんでまた今日は、こんなに気分がいいんだ?」
さっぱりとした、清々しいとさえいえる不思議な高揚感が彬を包んでいた。かすかに頭をよぎる後ろめたさを振り払うように、力を込めてバスタオルで頭をこする。続けて、平均より少し小振りの体をおざなりに拭いていたとき、彬は足下にまとわりつく感触に視線を落とした。
「おはようユミ。――ああ、ご飯か。ごめんごめん、すぐ作るから」
「にゃー」
それに答えるようにユミは鳴いた。三毛猫である。艶のない体毛とだみ声は後天的なものだ。もとは捨て猫だっから正確にはわからないが、もう十歳はとうに越えているだろう。人に換算したら老人と言って差し支えない年齢だ。
鼻歌など歌いながら、彬は台所に向かった。ユミだけでなく、彼自身腹を空かしていた。今日は、久しぶりに食欲があった。
「みずきが作り置きしていったシチューが、確か冷凍してあったよな……」
みずきは今、数人の女友達と旅行に出ていた。明後日には帰ってくることになっている。父親は帰ってきたかと思うとすぐ、アメリカへの単身赴任に戻ったため、父子家庭のこの家に今いるのは彬だけである。
「にゃー」
「ああ、お前もいたんだった」
「にゃー」
分かればいいのだとばかりに、三毛猫は先んじて歩を進める。昔はもっと人を馬鹿にしたような態度をとっていたユミだったが、最近は達観したのか、馬鹿な主人に合わせてやるといった様子である。
(昔はもっとかわいかったよなぁ……)
――と、前触れもなく彬はよろめいた。
「――あれ?」
何かにつまずいたのだろうか。しかし廊下にそんなものは見あたらない。もともと、そんな感触も足に伝わってはこなかった。
不思議に思いながら、壁に持たせかけていた体を起きあがらせようとする。
しかし体がいうことをきかず、膝が折れて彬は尻もちをついた。
突然心臓が跳ね上がった。下手くそなドラマーが叩きまくるようにアップビートしていく。息ができない。内蔵という内蔵が激しく痙攣しているような不快感に、彬は嗚咽する。それに、激痛が覆い被さった。
「…………! …………ッ!」
声にならない叫び。痛みは体中を蹂躙していた。しかし、力の入らない体は、のたうちまわることさえ彼にさせない。体が浮くような激しい痙攣が何度も起こる。
さらに強い激痛がその身を打ちのめす。神経が末端から破壊されていくような感触。破壊された先から、なにも感じなくなっていった。早く、体中がそうなればいいのに。ほとんどまともな思考ができなくなった頭で、彬は願う。そうすれば、これ以上痛みを感じなくてすむのに。
開いた瞳孔はすでに焦点を合わしていない。なにも見えない。なにも聞こえない。痛みと、そして白い闇が彼の壊れゆく意識に広がっていく。
死ぬのか。
どこかでそう言っている。もう一人の自分が。
死ぬのか。
死ぬというのは、いつもこれほど苦しいものなのだろうか。
――生きているだけでも、あんなに辛かったのに?
すべてが闇に埋没する中、風を感じた。
目覚めてみて、彬は驚いた。それはそうだろう。目を開けると、知らない少女にキスされていたりすれば。
4
彼は、生涯を通して経験がないほどの猛烈な勢いで頭を回転させていた。しかし意識の混乱が、その大部分を空回りさせてしまっている。
たとえば今彼が主に考えていることは、スイカは果物なのか野菜なのか、バナナはどっちに入るのか、ならフルーツトマトはどうなんだ、というようなことだった。完全に空回りである。
(…………)
焦ればあせるほど、考えは明確な指向性を失ってゆく。ちなみに、今彼が必死で考えていることは、なぜ昔の人は緑を青と言い張るのかということである。
(……どうしよう)
ようやく意識の一部が、目の前の問題に直面することにしたらしい。
(なにか、しないと……)
心なしか、前向きにもなってきたようだ。
――そうだ、まず状況を把握しなければならない。彬は考えた。
ついさっきまで、自分は死ぬほどの痛みに体を蹂躙されていたはずだった。
それなのに、今ではま逆といってもいいような気持ちの良い状況におかれている。
キス。その単語が頭に浮かんだ途端、彬の思考は再びオーバーロードした。無理もない。女の子とキスなんて、彬にはまったく初めての経験である。
(……どうしよう)
――堂々巡りを始めた思考が新たな展開を見せるのは、それからしばらく後のことである。
ようやく謎の唇が彬のそれから離れた。それまで近すぎてほとんど分からなかった相手の顔を、彬はここで初めて確認した。
そのとたん、彼の心臓は、キスされていたときよりも更に猛烈な勢いで収縮と膨張を繰り返すようになる。彼のもともとは色白の顔は、今は見る影もないほど真っ赤である。
歳は彬と同じくらいだろうか。黒い大きな瞳をした少女だった。透き通るような白い肌の中、すっと通った鼻梁の下には、微かに開かれた、桜色の唇がある。
平たくいえば、彼女は大変な美人だった。美人で、すごくかわいかった。彬は喉を鳴らす。この唇が、本当に今のいままで自分に押しつけられていたのか??
少女が少しだけ首を傾げるのを見て、彬はなぜかぎくりとした。艶のある唇が震えた。
「あの――だいじょうぶですか?」
耳に飛び込んできたその声は、彬を不思議な感覚で満たした。
「……あ」
言いかけて口をつぐむ。今、自分は何を言おうとしたのだろう。
「顔が真っ赤。熱があるのかしら」
そう言うと、少女は額を彬の額に押しつけた。一瞬の硬直の後、彬は慌ててと飛びはなれる。
少女が驚きの声を上げる。見開かれた黒い瞳が、怪訝そうに、顔の赤い少年に向けられていた。
「な、なななななな……っ!」
「はじめまして」
彬の意味不明の言葉をどう受け取ったのか、少女は目を細めた。
「死神のノアエティルアです。どうぞよろしくお願いします」
そう名乗って、少女――ノアエティルアは、花開くように笑ったのだ。
5
「にゃー」
「あら、かわいい三毛ちゃん」
ノアエティルアはユミを抱き上げた。
「にゃー」
「彬さん。この子名前、なんていうんですか?」
「……ユミ」
「ユミ――素敵なお名前ね」
「にゃー」
満足そうに喉をならしながら鳴くユミに、ノアエティルアは微笑を返す。
「ユミ、これからよろしくね」
(この子、なんで俺の名前知ってんだろう……)
そう思ったが、それを口にはしない。疑問は他にもたくさんあった。しかし、どれか一つでも訊ねてしまうと、とんでもない厄介ごとを呼び込んでしまうような気がして、彬は彼女になにも訊けないでいたのだ。もちろん、彬のその予感めいた考えは間違っていた。とっくに彼は、厄介ごとを背負い込んでしまっていたのだから。
あらためて目の前の少女を観察する。楽しそうにユミと戯れている少女は、こうしてみると、特に派手な顔立ちというわけではない。すっきりとした鼻筋、上品そうな口許、なめらかな頬の線、どれをとっても清楚な、落ち着いた印象を見るものに与えることだろう。
ただ、その目だけが違っていた。大きさが尋常でない目の大部分は黒目で、それを覆う睫はひたすら長い。夜の闇のように黒い瞳は、吸い込まれそうな、不思議な吸引力を持っている。
その目だけが異常だった。あやしく、あやうい、いかにも脆そうな、触れたら壊れてしまいそうな、黒い宝玉を思わせる瞳。
髪も黒く、身にまとう外套のような奇妙な服も同じく黒い。それらは、彼女の肌の白さをよけいに際だたせていた。
白と黒の、超然としたイメージ。彼女の暖かい笑顔とは裏腹に、そういった様は、人間離れしているとさえ彬に思わせるのだった。
「……君は、だれ」
ついにこらえきれなくなって、彬はノアエティルアにそう質問した。
「はい。ノアエティルアです」
「……ノアエティルア――あの、日本人じゃないの?」
「ええ」
にこやかに、ノアエティルアは続ける。
「私は死神ですから。冥界の住人なんです」
死神。
彬は発作的に笑いそうになった。ようやく合点がいったのだ。
「からかってるんだね」
数度瞬きして、ノアエティルアは聞き返す。
「からかう……ですか?」
「そうだろう。いったい誰に頼まれたの? 坂上? まさか新田先輩じゃないよね?」
ノアエティルアの瞳が、ゆっくりと伏せられた。
「……やっぱり、信じてくださらないんですね」
その悲しげな口調に、彬の攻撃的だった気持ちは一瞬のうちに霧散してしまった。罪の意識さえ感じた彬は、慌てて弁解口調で言う。
「いや、だって、信じるもなにも……そりゃ、俺だってもう少し信憑性があれば、けど……ええと……」
「では、今から証明しますから、見ていてください」
やおら立ち上がると、ノアエティルアは言った。
「ええ、照明まであるの? これってまさか撮影されてたりする!?」
その彬のピントの外れた反応に答えはない。その瞳は閉じられていた。細い腕が滑るように弧を描く。
ブンッ。
風が吹いた。座り込んでいた彬が思わずよろめいてしまうほどの強風である。彬はとっさに目を庇う。廊下に面していた襖が激しく音を立てて軋んだ。
「なっ、なに――?」
鼓膜にかかった圧力に顔をしかめながら、彬は首を振る。
そして、やがて一点にその視線は固定されるのだった。
「ま、さか……」
最初ほどの勢いはないものの、風はまだ続いている。であるにもかかわらず、目の前の少女――ノアエティルアに、その影響はほとんど見られない。
ただ、その髪や黒い服が、ふわりと浮かび上がっている。しかしそれは風にはためいてという様子ではなく、例えれば風のない日のシャボン玉のように、ただ宙に漂っているのだ。そして、漂っているのは彼女の髪や服ばかりではなかったのである。
「う、浮いている……?」
そう。彼女は、地面から五十センチは離れたところに浮遊して、愕然とする彬を見下ろしていたのだった!
その手には、不思議と大きさのはっきりしない、遠近感を狂わせる淡く輝く珠があった。珠も掌から浮かび上がっているように見える。
「これが、私の魂です」
ノアエティルアは珠を両手で包み込むようにすると言った。
「あなたの魂と共鳴しています。分かりますか?」
彬にはそれが分かった。理屈ではない。胸の奥に、暖かい――熱いものがある。それが目の前の、白い光を放つ珠に呼応していた。 本当に魂というものが存在するのなら、今見ているものは、体の奥に感じているものは、まさに魂そのものだと彬には思えた。
「君は、何者なの……?」
「私は死神のノアエティルアです。あなたを守るためにここにきました」
彬は息をのむ。考えられないことを、信じられないありさまで口にする、見たこともないほど綺麗な少女――。
「……むちゃくちゃだ」
その言葉は、彬のおかれている今の状況と精神状態とを、的確にあらわしているといってさしつかえなかった。
6
「実はあれは、事故だったんです」
「知ってるよ」
彬は麦茶を飲みながらうなずいた。
とりあえず落ち着こうという、彬のショート寸前だった脳味噌がなんとかひねり出した提案により、二人は居間で、座卓を挟んで座っていた。
「交通事故だろ」
ノアエティルアは首を振る。その両手は麦茶の入ったコップに添えられている。中の氷が音を立てた。
「そういう意味ではないんです」
彬は片方の眉を上げ、ノアエティルアを見た。何とか平常心を取り戻した彬だが、決して予断を許す状況ではない。
目の前の少女は、自分のこれまで築き上げてきた世界観など簡単に壊してしまえる。そんな茫漠とした予感が彬にはある。迂闊なことは口にしてはいけないと、本能がつげていた。自然、口数は少なくなった。
「『交通事故』という意味でしたら、確かにこの世界では事故なのでしょうけど、私たちにとっては、そうではありませんから」
意味が分からない。彬はあごに手を当てる。考え込むときの癖である。
「つまり、あの交通事故は、私たちの住む世界では予定されていたことなのです」
あごに置いていた手が下ろされた。間をおいて彬が出した声は掠れていた。
「予定、されていた……?」
「はい」
「ちょっと待ってよ。つまり、あの交通事故は、君たち死神が起こしたということ?」
「いいえ! まさか、それは違います。そうではなくて、私たちは全ての死を事前に知ることができるのです。私たち死神は、肉体が死を迎える直前の魂に近づき、その瞬間を待ちます。そして、肉体を失った魂を冥界へと導きます。あの交通事故で男の子が死ぬことは、冥界では事前に知られていました。その意味で、予定されていたのです」
「……どうして、人が死ぬ時を知ることができるんだ?」
「それは……お答えできません」
元々答えを求めていたわけではない。大事なのはその点ではなかった。
事前に、知ることができる?
彼女は確かにそう言ったのだ。
事前に知ることができるという事は、ある意味、決められているという事だ。そうでなくては、知ることなどできはしないのだから。
それがどんなに突発的な事故であろうとも、それは決められていたことだと、定められた運命だというのか?
二週間前に死んだ子供のことを思い浮かべる。彬は、子供の顔をほとんど写真でしか知らない。事故の時はそれどころではなかったし、三日後に目が覚めたときには葬式も終わっていた。その子の家に飾られた遺影で、ようやく顔を知ることができたのだ。
しかし、その笑顔が眩しいことは知っていたし、まだ死んではいけないのだという事も知っていた。
まだ、死んではいけないのだ。六歳の子供は、この世界に今生きる多くの人間よりも遅れて死ぬべきなのだ。まだ、覚える事はたくさんあった。経験すべき事柄は、それこそ山のように、彼の目の前に積み上げられているはずだったのに。
彬は怒りを覚えていた。しかしそれが何に対しての怒りなのか、彼には分からなかった。
そんな彬の心情を知ってか知らずか、ノアエティルアの話は続く。
「けど、ごくまれに、死ぬはずのないものが死んでしまうケースがあるのです。その原因不明の現象を、私たちは『事故』と呼んでいます」
彼女の言葉をほとんど上の空で聞いていた彬は、突然顔を上げた。今、ノアエティルアがそんな話をしている理由に、ようやく思い至ったのだ。
――そう、最初に彼女は、確かに言っていた。
(――あれは、事故だったのです)
そしてこうも言っていたのだ。
(交通事故であの男の子が死ぬことは、冥界では事前に知られていました)
では、なにが『事故』だったというのか?
彬はノアエティルアを凝視した。口を開き、何かを言おうとする。息が詰まっていた。
彬の視線に、ノアエティルアはうなずいた。
「そうです。決して死ぬはずのない人間――彬さん、あなたが死んだのです」
蝉の声が突然止んだ。開け放した窓から強めの風が入り込んでくる。風鈴が、ひときわ高く鳴る。
知らず知らずのうちに、麦茶のコップを握る手に力が入っていた。氷はすでにみんな溶けてしまっている。ノアエティルアは無言である。言うことがなくなったわけでなく、彬の言葉を待っているという様子だった。
「け……けどッ」
彬は言いかけ、そして彼女から目をそむける。
蝉がまた鳴き始めた。
「……けど僕は、生きている」
「一度死んだのです。それを私が生き返らせました」
心臓が警告する。
再びノアエティルアを見る。彼女の真剣な夜の眼差しは、決して彬からそらされない。
「……ってんだよ」
心臓が警告する。
「――なにバカいってんだよ。そんなこと、あるわけないじゃん。俺が死んで、それでまた生き返った? そんなこと、ありえないだろ!」
取り乱したその口調に、ノアエティルアは少し眉をひそめた。怒っているのではなく哀れんでいる。そんな目をしていた。
「目が覚めたとき、体に傷一つなかったことを不思議に思いませんでしたか。あの子は死んで、運転していた人も無傷ではなかったのに、子供を庇っていたはずのあなただけが、なんの傷も負わずにすんだことに、本当になにも疑問を感じていなかったのですか?」
彬は自身の両手を眺めた。心臓が警告する。鼓動がそのスピードを急速に速めていく。
いつもそうだった。意識的に考えまいとしているあの時のことが、一瞬でも脳裏に蘇ると、心臓が激しく警告する。体中から汗が吹き出し、それ以上考えるなと、彼に強く訴える。
「あ……」
本当は、知っていたのだ。見て、聞いていたのだ。タイヤがアスファルトに擦れる音。ハンドルを切る必死の形相の男。背後の子供の息づかい。どこかの犬の吠える声に、鈍い音が重なる。しゃがんだ脇腹に食い込む銀色のバンパー。遅れてやってくる衝撃。地面に叩きつけられる一瞬見えた、気の遠くなるほど青い空――
「ああ……ッ」
「彬さん?」
「ああっ――うあああああぁぁっ!」
「彬さん! 落ち着いてください! だいじょうぶですから――私がいますから、だから! お願い、彬さん――!」
――そして。
気がつくと、強く抱きしめられていた。
ずっと叫び続けていたらしく、喉がひきつれて痛い。
そっと、回された腕をはがし、顔を上げる。彼女の濡れた瞳に、涙と鼻水で汚れた情けない顔が映っている。
ノアエティルアも泣いていた。泣きながら微笑んだ。そうして彬の首に腕を絡ませ、耳元で言う。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
「……いや」
ようやく落ち着いてくると、彬は羞恥で顔を赤くした。とんでもない醜態をさらしてしまった。
同時に、今の状況にも気づく。二人は抱き合っていた。あわてて身をよじり、逃れようとする。しかし、ノアエティルアに彼を離す気はないようだった。
「あ、あの、ありがとう。もう、いいから……」
――と、その言葉に反応して、ノアエティルアは彬から身を離した。
「……あの、まだ、よくないんです」
「え?」
「あの……なんといったらいいのか……」
ノアエティルアは落ち着かなげに視線をそらす。そしてうつむきかげんで、言いにくそうにうち明けた。
「……あなたはまだ、完全には生き返ってないんです」
「へ?」
「もちろん蘇生は成功しました。だから今のあなたは生きています。ただ、ええと……」
どうしたことか、彼女の口調は今までとはうって変わってさっぱり要領を得ない。彬はにわかに不安になりつつ訊いた。
「なにか、問題でも?」
ノアエティルアはうなずいた。
「……一度、肉体から切り離されてしまった魂は、そう簡単には繋がらなくて、きちんと癒着するには、しばらく時間がかかるのですけど、その間に、不定期な感覚で、その、発作が……」
最後に消え入るような声で言われた言葉を、彬は聞きとがめた。
「――発作? どんな?」
「あっ、けどもちろん大丈夫ですよっ。その発作をおさめるために、私がここにいるんですから。発作がおさまるまでは、とても苦しいですけれど……」
「苦しいって、どれくらい?」
「……死んだほうがましと思えるそうです」
……思い出した。そういえばついさっき、そんな目にあったばかりではなかったか。あれは確かに、死んだ方がましだと思えるほどの苦しみだった。っていうか死んだと思った。
それと同時に思い出したことがある。あの後、気を失い、目が覚めると、自分は彼女にキスされていたのだ。あれは一体どんな意味があったのだろう。まさかあれが、彼女の治療というわけでもないだろうし。
「……あの、君の言う治療って、具体的にどんなことするの?」
「はい。ごく簡単にいえば、私のエネルギーを、彬さんに送り込むのです」
まさか。彬の瞬時にわいた疑惑に、ノアエティルアは明瞭にこたえた。
「口移しで」
7
二階にあるバルコニー。
彬はそこに、ぽつねんと座り込んでいた。その背中に哀愁が滲み出ている。
彼は空を見ていた。なにか、辛いことや悲しいことがあったとき、彼はいつもここにきた。バルコニーで、しばらくこうして空を眺めていると、不思議と癒やされた気分になるのだ。
いつの間にか、ユミが傍らに座っていた。何かを口にくわえている。どうやら、ネズミの死骸であるようだ。
「にゃー」
死骸を床に置くと、ユミは彬を励ますかのように一声鳴いた。
「くれるのか……」
呟く彬の声が震えている。泣きかけである。
「いいや泣くもんか。涙は、うれしいときのために取っておくんだ」
夜までかかって、ようやく話し合いにも一応の決着が見られた。
結論としては、彬の魂が肉体に完全に癒着するまでの間、ノアエティルアはこの家に居候するという形で落ち着いていた。
明後日には旅行から帰ってくる妹、みずきに、どう説明するのかを考えると今から頭が痛いが、不定期な発作が次にいつ起こるかまったく予想できないばかりか、起こってしまえばすぐさま治療を行わなければ手遅れになるというのだから、どうにも仕方がない。
ノアエティルアはもう眠っているはずだった。今日の所は居間で休んでもらっているが、明日には彼女の部屋も構えなければならない。服とか、その他もろもろの日用品も、明日買いに出かける予定だった。
問題は明日より明後日である。明後日には、みずきが旅行から帰ってくる。
「……ああ、どうしよう」
打開策をずっと考えてはいるのだが、さっぱり良い案が浮かばない。
「やっぱり、言うしかないんだろうな。本当のことを……」
しかし、信じてもらえるのだろうか。こんな、突拍子もない、荒唐無稽な、彬自身今一つ納得のいってないようなむちゃくちゃな話を。
「まあ、いいか」
不安を振り払うように大声で言って、大の字に寝転がる。ネズミを潰さないように気をつけながら。
「がんばれ、彬」
ためしに呟いてみて、本当に泣きたくなった。

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