彬がノアエティルアにキスされている現場を目撃したみずき。その時、みずきに異変が!?
第二話 GOD OF DEATH
1
「あーあ、すっかり遅くなっちゃった」
昼下がり、閑静な住宅街を元気よく歩く少女がいる。十五、六歳ぐらいだろうか。あるいはもっと若いのかもしれない。ショートヘアを風になびかせながら、健康そうな肢体をいっぱいに使って歩いている。右手に持つ旅行用の大きなカバンも、少しも苦になっていない様子である。
輪郭が少し丸めのために童顔に見える顔には、何かを思い出してのことか、楽しそうな笑みを浮かべていた。
「楽しかったなー。やっぱり行ってよかった」
ふと立ち止まり、考え込むように空を見上げ、ふくよかな唇に人差し指を当てる。
「えーと、たしか冷凍庫にお肉があって、野菜もあれとあれがまだ大丈夫なはずだから――」
考えがまとまったのか、にっこり笑顔で再び歩き出す。
「えへへー。お兄ちゃんみずきがいなくて、寂しがってなきゃいいけど♪」
2
居間で、彬とノアエティルアはくつろいでいた。
二日前彬が初めてノアエティルアに出会ったときのような死神装束は、もう彼女は身に着けてはいなかった。かわりに昨日買ったばかりの水玉のワンピースを着ていて、それは死神装束なんかよりずっと彼女に似合っていると彬は思う。
しかし、目の前の少女がいくらかわいかろうと、今の彬には感動する余裕もない。
(――やばい)
実際彬は焦りまくっていた。
(結局、なにも思い浮かばなかった……)
今日、妹のみずきが旅行から帰ってくるのだ。みずきにノアエティルアのことをどう説明するのか、その具体的な案が、彼にはどうしても思いつかないのである。
「……ああ」
ため息をつきながら首を振る。その仕草に、ノアエティルアはビクリと身を竦ませた。
「……どうしたものやら……」
「彬さん……」
その声に顔を上げる。見るとノアエティルアは、なにやらずいぶん思い詰めている様子である。
「な……なに?」
少なからずビクつきながら、彬は返事した。またなにか、厄介なことでも言い出すんじゃないだろか。このところのハプニング続きで、すっかり疑心暗鬼になってしまっている彬である。
「あ……あのっ、昨日は本当にごめんなさいっ」
そう言ってノアエティルアは深く頭を下げた。黒く長い髪が座卓に流れ落ちる。
(ああ――)
彬は思い至ると、手を左右に振って見せた。
「いいよ、もう気にしなくて」
「でもッ」
「仕方ないよ、こうやって、この世界で生活するの、初めてなんだろ?」
「……私、ここにくる前に色々と勉強してきたんですけど、予想していたのとは何もかもがぜんぜん違っていて……」
もじもじと、ノアエティルアは恥ずかしそうにうち明ける。
確かに、時折おかしな言動が目立つのは事実だった。
たとえば昨日買い物に出かけたときなど、道行く全ての人に挨拶しようとしたり、信号を手を挙げて渡ったりするかと思えば、声をかけてきたスケベそうな中年親父に丁寧に受け答えしたりする。彬が止めなければ、危うく下着の色やスリーサイズまで教えてしまう所だったのだ。
(なにしろ死神だからな……)
隣の国同士でさえ、文化や常識がまったく違っていたりすることがざらにあるこの世の中である。
(それが異世界となったら、やっぱり仕方がないか……)
言語やらなにやら、釈然としないことは他にもたくさんあったが、それに対するノアエティルアの答えは要領を得なかった。冥界のことについて、どうやらあまり話してはいけないことになっているらしい。やはり冥界にも、いろいろと決まり事があるのだろうか。この世界の法律のような?
彬の興味は尽きなかったが、とうのノアエティルアが答えてくれないのでは仕方がない。彬の知識に対する欲求は、どうやら今のところは満たされそうにはなかった。
ようやく最初の話に戻って彬は言った。
「――とにかく、気にすることないよ。必要なことは、時間をかけて覚えればいいんだから」
「彬さん……」
「ん?」
「ありがとう」
感謝の言葉と笑顔に、彬は顔を赤くした。
なぜ彼女はそんな顔ができるのだろう。相手のことを信頼しきっているというような、無垢な――そう、子犬のように人なつっこい微笑みを、彼女は簡単に、その顔に浮かべてしまう。
彬はなんだか落ち着かない気分になってしまい、うつむいて湯飲みを眺めた。
そのときノアエティルアの表情が、雲が太陽を覆うように変化した。
彬にはそれを見ることができなかった。湯飲みを眺めていたからではない。なにも見られなくなっていた。湯飲みは、畳の上に転がっていた。
足にかかるお茶が熱いのかどうかさえ、彬には分からない。体中を襲う痛みがそんな些細な感覚をわからなくしてしまっていた。体に力が入らない。視覚も聴覚も認識できない。触覚も感じられない。あらゆる感覚が麻痺しているのに、だのに痛いと感じる。痛い。そして拒否。体中を駆け巡る拒否の感覚――
「彬さん! 今治療しますからっ――」
ノアエティルアは彬の体を横たえる。自由を失っている彬に抵抗はない。風が舞う。ノアエティルアはためらうそぶり一つ見せず、唇を彬のそれに重ねた。
「たっだいまー!」
声と同時に、襖が勢いよく開いた。
「お兄ちゃん、みずきがいなくて淋しかったでしょ。そんでもって夜中に泣いちゃったりなんかして♪ んもういつまでたっても妹離れしないんだか、ら……?」
みずきは立ちつくした。
ドサリ。旅行カバンが落ちる。
目の前の光景を、信じられないものを見るようにしばし凝視した。
そして首を振る。
「……キッ」
叫ぶ。
「キャアーーー!」
築四十年のこの一軒家では、もはや誰も知りえないいくつものドラマが起こった。叫び声も、幾たび発せられてきたことだろう。しかし今回の悲鳴は、その甲高さと質・音量において、これまでのどんな叫びをも凌駕していた。
しかし、そんな殺人級の悲鳴にもめげず、ノアエティルアは治療を止めなかった。みずきはさらに叫ぶ。
「キャアアアーーー!」
さらに凄まじい大音声が居間を揺るがす。
しかし、二人が動く気配はない。
実際の話、治療がまだ終わっていないのだ。ここで止めてしまえば、彬の肉体はこんどこそ魂を完全に手放してしまうだろう。
ノアエティルアの聴覚にかかる負担を思うと、決して治療を止めようとしない彼女のその意志の強さは、賞賛に値した。
ノアエティルアが彬の額に置いていた手を頬にずらすのを見て、みずきの瞳の中で、何かが熱く燃え上がった。
息を、ひときわ深く吸い込み、
「キャッアアァアァアァアァアーーッ!!」
今度の叫びにはビブラートがかかっていた。家全体が震えた。触れてもいないのに、棚の上の花瓶が落ちた。風のせいではない。風はごく局地的にしか――ノアエティルアと彬の周囲を小さな輪で囲むようにしか吹いていなかったから。
風が止む。
ノアエティルアは顔を上げた。唇まで真っ青である。遅れて、彬が目を開く。その手を、彼女はそっと握る。
「彬さん……よかっ、た……」
ノアエティルアは倒れた。慌てて支える彬。
「ノアエティルア? どうした――クッ」
彬は顔をしかめる。頭が痛い。それと耳鳴りが酷い。ノアエティルアの、前回には見られなかった異常な衰弱ぶりといい、治療中に何か異変が起きたのは明らかだと思えた。
「――ノ……ノアエティルア……クソッ、一体何が……」
そこでようやくみずきの存在に気づく。みずきは襖にもたれ掛かり、肩で息をしている。その異常に血走った目に、彬は不吉なものを感じた。
「みずき! おまえ、彼女に何をした!?」
ぶち。
何かがぶち切れたその音に、彬は何だろうと首を巡らした。
3
「説明してもらいましょうか」
みずきと二人は、座卓を挟んで座っていた。怖いくらい静かなみずき、ビクついている彬、キョトンとしているノアエティルアと、三者三様の面もちである。
「みずきがいない間、いったいなにをしていたの、お兄ちゃん?」
その、幼い子供のように一語一語をゆっくりと発音する声の調子が、彬にとってはかえって恐ろしい。どっと吹き出た汗を感じながら、彬は後ずさる。
「逃げないで」
「はい逃げませんごめんなさい」
彬は、幾つかの忌まわしい記憶を思い出していた。そのもっとも古いものは五年前にまで遡る。みずきのアイスクリームを勝手に食べ、川に落とされおぼれかけたという記憶である。その後、みずきのもたらした災厄は十数件にも及び、そのどれもが、思い出すたび彬に冷たい汗を流させた。
そしてほんの五分前、新たな記憶がそれに加わることとなっていた。彬の頬や目の周りに痣として、今でもその残滓を見ることができる。
「……誤解なんだ」
ぼそりと、ためしに言ってみる。
「なにが♪」
その目に一瞬きらめいた鋭い光を、彬は見逃さなかった。
(もう、思い切って全部打ち明けるしかない……!)
ガタガタと震えつつ、決心を固める。
(それしか――もうそれしか、俺が生きられる道はないだろう)
「みずき!」
勢いよく、彬は身を乗り出した。
「信じられないかもしれないけど、どうか最後まで聞いて欲しい。実は――ておいッ、寝るなよ!」
みずきは眠っていた。しかもどうやら熟睡しているらしい。気持ちよさそうな寝息が、その場の雰囲気を一気に盛り下げる。
「ユルガシィ?」
「え」
ノアエティルアの突然の張りつめた声に、何事かと顔を向ける。彼女の視線は、ついによだれまで垂らし始めたみずきに向けられていた。
「……あの……あれ、みずきだよ。妹の」
ノアエティルアは首を振った。視線は、みずきから決して放そうとはしない。
「さっきまではそうでした。でも、今は違います。たった今、みずきさんは彼――ユルガシィに体を支配されました」
「ええ? し、支配!?」
「――その通り」
突然目を開いたかと思うと、みずきは顔を上げ、静かな口調でそう答えた。彬は、その口調に強い違和感を覚えた。みずきの喋り方ではない。それは別人のものだった。
「みずき……?」
「私の名はユルガシィ。死神だ」
「死神? ノアエティルアと同じ……?」
彬はノアエティルアを見た。その顔に宿る明らかな負の感情を読みとり、彬はとまどう。今まで、彼女のそんな顔を見たことはなかった。
「ユルガシィ、ここで何をしているの。あなたにはあなたの仕事があるでしょう」
「これが私の仕事だ」
みずきは、静かな声で言う。――いや、彬はその頃には悟っていた。目の前にいるのはみずきではなかった。体はみずきだとしても、実際に声を発しているのは別の存在だった。
「――そう」
と、ノアエティルア。
「私に監視をつけたのね」
そう言うノアエティルアの顔が、彬にはひどく悲しそうに見えた。
「そうだ。君が目的を果たして、冥界に帰還するまでの監視が、私の今の任務だ」
「どうして監視なんか――私は信用されてないの?」
「今の君のことはね。自覚すべきだノアエティルア。あの時からずっと、君は危険視されているのだということを」
ノアエティルアは悔しげに唇を噛んだ。
「ちょっとまてよ」
その隙をつくように、彬は口を挟む。
みずきと目が合った。機械人形のような、ガラス玉めいた、感情のまるで感じられない眼差し。
(――やっぱり違う)
これは、みずきではない。
(――ユルガシィ……っていうのか?)
「――なんだ」
みずきの唇が動き、冷たい声を発する。
その声に嫌悪感さえ覚えつつ、彬は問うた。
「おまえは、ユルガシィというんだな?」
「そうだ。この体は間違いなく君の妹のものだが、ちょうど彼女には用事があった。そのついでに、こうして彼女の体を使わせてもらっている」
ノアエティルアが悲鳴じみた声をあげた。
「ユルガシィ! あなた、その子に一体なにを――」
「これ以上、私を失望させないでくれないか、ノアエティルア」
その声には、相変わらずなんの抑揚も感じられなかったが、聞くものが聞けば、そこに微かな嫌悪の響きを認めたかもしれなかった。
「君のその、みにくいまでにあからさまな感情の発露に対して、君自身は本当になんの抵抗も感じていないのか? たった三日の間に、よくもそれほど人間くさくなったものだ。それとも、今までずっと隠してきたのか?」
「人間くさいのがいけないこと?」
「だから君は危険視される」
みずきの首が人形のように左右に振られるのをみて、彬は強烈な怒りを覚えたが、それと同時に恐ろしさをも感じないわけにはいかなかった。
(俺は、思い違いをしてたのか……)
不安が、彬の心を侵食していく。
(たいしたことじゃないって思ってたのに)
自分だけの問題だと思っていた。自分一人が生きるか死ぬか、それだけなのだと――
なのに今、みずきは得体の知れない存在に体を支配され、それにたいして自分は怒りを覚えることしかできない。
「意味のない話に、これ以上付き合うつもりはない。本題に入らせてもらう。この体の主、久瀬みずきに、問題の少年久瀬彬は、ノアエティルアの正体を明かそうとした。これは明らかな特別法令違反だ。そうだね、ノアエティルア」
「対処する予定だったわ」
「予定は予定のまま終わったわけだ。久瀬みずきには記憶消去と記憶追加とを行った。もう彼女に、ここで見た出来事に関する記憶はない」
「記憶消去ですって!」
ノアエティルアの顔が、見る間に青ざめていく。
「なんか、やばいことなの?」
「一つ間違えれば、精神に異常をきたしかねません」
「なッ――」
「そうはならなかった。後遺症もないだろう。彼女は運が良かった。だが、気をつけることだ。これから先、こういうことがあるたびに、僕は介入することになるだろう。あまり幸運が何度も続くとは思わない方がいい」
みずきの顔が、ぼやけたような気がした。
「気をつけることだ。立場を早く理解して、誰にも真実をさとられないようにすることだ。そうしてくれた方が、僕も無用に動き回らずにすむ」
三度瞬きをする。
「――どうしたのお兄ちゃん、その痣。まさかケンカでもした? って、んなわけないよねッ。お兄ちゃんケンカとか大っ嫌いだし。転んだの?」
「……み、みずき……なのか?」
みずきには、その彬の科白がどうやら気に入らなかったらしい。あどけなかったまなざしは、瞬く間にかなり危ない目つきになってしまう。
「い、いや……みずき、あの……おかえり」
「――うんッ。ただいま、お兄ちゃん♪」
笑顔に戻ってみずきは言った。そして次の瞬間には不思議そうに辺りを見回していた。相変わらず表情の変化がめまぐるしい。いつものみずきだ。
「……けど、おっかしいなー。みずき、いつうちに帰ったっけ……まあ、いっか。きゃあ♪ ノアさん久しぶりだねー! 元気だった? なんだっけ……なんかヨーロッパの小さな国に、叔父さんの仕事の都合で行ってたんだよね?」
ノアさん? ヨーロッパ? 思いがけないみずきの言葉に、彬は思わず声を上げそうになった。けれどノアエティルアに視線で静止されこらえる。ノアエティルアは何事もないかのように、みずきにこたえた。
「こんにちわ、みずきさん。本当おひさしぶりッ」
「ほんとッ、もう何年も会ってないのに、すぐわかったよ! もう、あいかわらず素敵なんだからー♪ こんなきれいな人が従兄弟なんだって、新学期始まったらわたし自慢しまくっちゃっていいよね!?」
身を乗り出し、ノアエティルアの両手をとって、ブンブンと振り回している。みずきの本当に嬉しそうな顔を、彬は呆然と眺めるばかりであった。
ふと、みずきは振り回していた手を止めた。いぶかしげに目を細める。
「……なんか、ヘン。わたし従兄弟っていた、よね……?」
一瞬考え込んでいたみずきだが、すぐまた満面の笑みを取り戻すと、ノアエティルアの手をギュッと握りしめた。
「あははー。ごめんね気にしないでッ! これからノアさん、うちで一緒に暮らすんだよねッ」
「え、ええ――」
「やったあッ。ねえ、今日はいっぱいお話しようね♪ ――やだ、お兄ちゃん、変な顔してるッ。まあもともと変な顔だけど、ってウソウソ! じょーだんだってお兄ちゃんったらッ」
状況の急激な変化についていけず、口を半開きにしたままひきつらせていた彬を見て、みずきが声を出して笑う。
彬も何とか笑おうとして、うまくいかず、それはみずきの笑いをさらに誘うことになった。
4
「どういうことだ」
彬はノアエティルアに詰め寄った。
みずきは今、旅の垢を落とすといって入浴している。
「あいつは誰で、ここになにしに来たの? 妹に――みずきに何をしたんだ?」
だんだんと、気持ちが高ぶってくるのが分かる。しかし、それを抑えるつもりは全くなかった。
「あいつは誰? きみは何者なの? みずきは――俺たちはどうしてこんな目にあわなきゃいけないんだ!?」
「……ユルガシィは死神で、私のパートナーです。――いえ、パートナーでした」
彬が口を開こうとするのを手振りで押さえ、ノアエティルアは続ける。
「私たち死神は通常二人で行動します。いえ、二人で行動するからこそ死神だといえます。彼は私のパートナーでした。けれど二週間前の、あの『事故』をきっかけに、私たちはパートナーを解消しました」
あの事故とは間違いなく、彬が一度は命を落とした、あの交通事故が引き起こした一件のことだろう。
そこでノアエティルアは微かに笑ったようだった。あるいはそれは、自嘲の笑みだったのかもしれない。しかしそれに気づくには、彬はまだ幼すぎた。
「だから私本当はいま、死神ではないんですよ。私が何者かという質問には、答えられないんです。私自身にも分からないもの」
話を聞きながら、彬は違和感を覚えていた。
何かが食い違っているような気がする。
約二週間前に『事故』が起こった。その事故で、死ぬはずのない自分が死んでしまった。その自分を生き返らせたのが彼女であり、それを完全なものにするために地上に降りてきたのも彼女である。
「……あいつは、なにをするためにここにいるの? なにか君とは違う役目があるの?」
「役目は私の監視だと思います。……実は、ここに来るまでに少し問題があって、その問題を無視するようにして、強引に私はこの世界にここに来たものですから、そのあとでユルガシィが、私の監視をする事に決まったのだと思います」
「もめ事ってなに?」
ノアエティルアは首を振った。
「それは言えません」
「また秘密なんだね」
「ごめんなさい」
「もういいよッ」
ノアエティルアはビクリと肩を竦ませた。彬の口調が思いの外激しかったからだろう。
彬は苛立っていた。なにかに怒りをぶつけたくてしかたがなかった。だから、いつもなら絶対言わないようなことが、すべるように口をついて出た。
「いいよ、別に。言いたくないなら言わなけりゃいい。だけど――だけどもしみずきや俺の知り合いになんかあったら、俺はお前たちを絶対に許さないからな!」
彬の怒りの込められたまなざしに、ノアエティルアはうつむいた。
伏せられたまつげの隙間から涙がこぼれるのを見たとたん、彬は自分が言ったことを後悔した。
こんなことを言ってはいけなかったと思った。彼女は、自分の命を救うためにここにいるのに。
「あ……」
言ってしまったことは消せない。だからせめて謝ろうと思った。しかし、言葉が出てこない。あれほど強く言っておいて、すぐに謝ることが、みっともないことのように感じた。
「……ごめんなさい」
ノアエティルアが、震える声で謝る。
「ごめんなさい。私、上手にやろうって、迷惑かけないようにしようって、そう決めてたのに、ここに来てからずっと、彬さんにも、みずきさんにも迷惑かけてばかりで……なんにもちゃんとできなくて……失敗ばかりで……!」
声に嗚咽が混じっている。二粒、三粒、あふれ出す感情をあらわすように涙がこぼれ落ちた。
「……いいよ。もう泣くなよ」
彬はそれ以上何も言えず、ノアエティルアの涙から目をそらした。
「彬さんにもあんなこと、言わせてしまって……私、人を傷つけてばかりで、どうしようもないです」
息が詰まる。彬は突然理解した。ノアエティルアは、彬にひどいことを言われて傷ついたから泣いているのではないのだ。
(俺がノアエティルアを傷つけて、そのことで、俺が傷ついたことに――)
そのことでノアエティルアは泣いているのだ。なによりも、傷ついているのだ。
「――ノアエティルア」
彬の声に、ノアエティルアが顔を上げた。彬は目をそらした。彼女がなにかを言おうとしてやめた。
二人とも、しばらくの間口をきかなかった。
永遠とも思えるような沈黙の後、彬はうつむかせていた顔を上げた。
「ごめんよ」
絞り出すような声で、彬はようやく謝ることができた。
「ごめんよ。どうしようもないのは俺の方だった。ノアエティルアは、こんな俺なんかのために、良くしてくれてると思うよ」
「彬さん……」
「いろいろ迷惑かけると思うけど、これからもここにいてくれるかな?」
「はいッ。私もたくさん迷惑かけると思うけど、一生懸命がんばります! これからもよろしくお願いします」
ノアエティルアはそう言うと、三つ指ついてお辞儀した。
「いや、それなんか違う……いやいや、俺の方こそ……」
彬もつられてお辞儀しようとしたそのときである。
ガラッ。
「ああ、いいお湯だったッ。もうサッパリ! ねえ、今日の夕ご飯だけど――ああ! お兄ちゃんノアさん泣かしてる!」
「ええ、いやこれは違うって!」
「問答無用! 男の子が女の子泣かしてどうすんのよ!!」
バキッ。
「アウッ!」
こうして、彬の顔に新しい痣がまた一つ生まれた。

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