HEART 第四話 沙美、登場 ―OLD PHOTOGRAPHS―

平穏な軽音部に突然現れた嵐、沙美――彼女との再会に、彬は記憶を想起する――

HEART 第四話 沙美、登場 ―OLD PHOTOGRAPHS― - 幾千の物語

2002/09/18UP

    1

「そうだ、すっかり忘れていたよ」
 雄輔が、今思い出したというように言った。
 彬にとってはさんざんだった二学期のスタートも、その後は大した混乱もなく、すでに十日が過ぎようとしている。放課後、彬とノアエティルアはいつものように軽音部にきていた。
「なんすか、先輩?」
 新田雄輔の独り言めいた言葉に、多少神経質気味に坂上伸也が反応する。
 雄輔はにこやかな顔と声で、伸也に説明した。
「いや、前に写真を撮っただろう? あれを、夏休みの間に現像していたのさ。二学期の始業式に持ってきてたんだが、それをみんなに伝えるのを今の今まですっかり忘れていたよ」
「写真?」
 伸也は首をかしげる。
「――そんなの撮りましたっけ?」
「撮ったじゃないか、ほら、去年の学園祭のとき――」
「一年前じゃないっすか!」
「いやー、あのときの学園祭ライヴは盛り上がったよね」
「話を逸らさないで下さい! だいたい、学園祭なんて今年は参加できるかどうかも分からないんすからね」
「なぜ?」
「あ・ん・た・が、部費を全部使い込んだからだろーが!」
 そんな伸也と雄輔の会話を聞き流しながら、彬はノアエティルアにドラムの指導をしていた。見学という名目で来ていたノアエティルアも、すっかり部にとけ込んで、いまではほとんど部員扱いである。
「彬さん、今日は皆さん練習しないんですか?」
二学期が始まってからの十日間、軽音部はだいたいいつもこんな感じだった。つまり、新田雄介と坂上伸也が、はたから聞いたら漫才しているとしか思えない、仲がいいのか悪いのかよくわからない会話を繰り広げ、関係ないところで彬がノアエティルアにドラムの指導をしている。軽音部ゆいいつの一年生、ヴォーカリスト兼ベーシストの真崎聖は、所属している生徒会の方が忙しいらしく、このところ休みがちで、今日もまだ来ていない。そんなわけで、軽音部としての練習らしい練習はほとんどされていなかった。
「うーん、練習するかどうかは分からないけど……坂上のドナドナは聴けそうな気がする」
「坂上さんはあの曲が本当に好きなんですね」
「二学期に入ってから、ほとんど毎日弾いてるからね……じゃあ今日も基本のリズムから叩いてみようか」
「はいッ」
 何事も基本から――が、彬の信条である。ドラムのセットを一人で組み、基本のリズムを叩き始めるノアエティルアを、彬は満足げに眺めた。
 人にドラムを教えるのは初めての経験だが、自分が教わったときのことを思い返してみても、ノアエティルアはかなり覚えのいい方でないかと思う。
 軽音部のキーボーディストとギタリストはまだ争っているようだった。もうしばらく放っておこうと、彬は思っていた。へたに止めに入って、とばっちりでもくらったらたまったもんじゃない。
「まあ、せっかくだから写真を見ようじゃないか」
 新田雄輔の提案により、坂上伸也は納得がいかないまでも、とりあえず休戦することにしたらしい。雄輔が机に広げたミニアルバムに、二人一緒になって目を落とす。伸也もなんだかんだいって、興味がないわけではないのだろう。
 しばらくして――
「おーい、彬。見てみろよ。去年の学園祭の写真だけど、すっげえなつかしいぜ」
 見ると伸也がアルバムから目は逸らさないまま、手をおいでおいでの形に動かしている。彬はノアエティルアに休憩を提案して、二人でアルバムを見に行った。
「ほら、見ろよ。これ、学園祭ライヴのギターソロのときだぜ! んでこれが客に手を振る俺」
 すっかり写真に夢中になっている伸也である。
「人がいっぱいですね。これはなにをしてるんですか?」
「ライヴだよ。こうやって、みんなの前で自分たちの曲を演奏するんだ」
 彬のその説明に、ノアエティルアは胸の前で両手を合わせ、瞳を輝かせる。
「わあ――すごく楽しそうですね」
うん。彬は笑顔でうなずいた。
「十一月に学園祭があるから、その時またやると思うよ」
「資金面の問題が解決したらの話だけどな」
「そうだね。ははは」
 伸也の暗い声に、かわいた声で笑う彬だった。
「――あら、この人どなたですか?」
 伸也が次のページを開いてまもなく、ノアエティルアが一枚の写真を指し示した。
 そこには、ドラムを叩く彬と、その首に後ろから腕を回して抱きついている、彬と同年代の少女の姿が写っていた。少し勝ち気そうな目つきをした美少女である。
 伸也が口笛を鳴らした。
「ツーショットじゃん。おまえら、いつの間にこんな写真撮ったんだ?」
 雄輔が、意味ありげに彬に目配せした。
「そうか。結城君は彼女の事を知らないんだな」
「……そうですね。今まで、特に話すこともなかったですから」
 雄介にそうこたえながら、彬は胸にかすかな疼きを覚えていた。
 ――そうだった。
 このころは、彼女がいたのだ。
「彼女は相葉沙美といって、去年までこの軽音部に所属して、ヴォーカルとベースを担当していたんだよ」
 雄介の説明に、ノアエティルアは首を傾げる。
「今はどうされてるんですか?」
「いないよ」
 彬のその強い口調に、皆の視線が集まった。
「あいつはもういないんだ……」
 彼女――相葉沙美の事を、彬は忘れていたわけではない。
 ただ、考えないようにしていただけだ。思い出すとつらいから、胸が苦しくなるから……
 雄介が彬の代わりにノアエティルアの問いにこたえる。
「結城君……相葉君は、遠いところに行ってしまったんだよ」
「遠い、ところ……」
防音ドアが突然開いたかと思うと、現在のヴォーカリスト兼ベーシストの真崎聖が慌てふためいた様子で転がり込んできた。文字通り地面に転がったまま、必死の形相で口を開く。
「た、たたたたたたたッ……!」
「なんだ聖、遅れてくるなりラップの練習か? そんなことしても遅くなった罪は消せないぜ」
 伸也が言った。
「それ以前にうちでラップをやるつもりはないよ、真崎君」
 と、雄輔。
「たたた大変です、先輩!」
『なにが?』
 はからずも雄介と伸也の声が重なる。ここらへん、妙に息が合っている二人である。
「か、彼女がいたんですッ!」
『彼女って?』
「沙美さんですッ!」
『沙美?』
「あら、みんなしばらくね」
 そう言って入ってきた少女は、髪こそ少し短くなっていたが、まさしく写真に彬とツーショットで写っていた少女だった。
『沙美!』
「グエッ」
 足下に転がっていた聖を、その優美な足でためらうことなく踏みつけ、相葉沙美、颯爽と登場である。

    2

「こっちに聖のやつこなかった?」
 沙美はそう言いながら、何事も起こってはいないのだというようなごく自然な動作で辺りを見回した。
「あいつ、人の顔見るなり悲鳴あげて、そのまま走って逃げやがったのよね。まったく、むかつくったらッ!」
 言いながら悔しそうに足を踏みならす。
「グエッ。グエッ。グエッ」
 沙美が足を踏みならすたびに、蛙が踏みつぶされたような音がするのだが、沙美は一向に頓着しない。わざとやっているとしか思えない。
「沙美……お前の足が踏みつけている、その、ぼろ雑巾みたいになってるのが聖だ」
 伸也が悲痛な顔で、沙美の足下を指さした。
「――あら、聖。あんた私の足の下でなにしてんのよ?」
「グエッ」
 今気づいたといった様子で、沙美は言った。ついでのようにもう一踏みする。
「むごい……」
「なにがむごいってのよ伸也。人を見るなり逃げだしたこいつが悪いんでしょ。――けど、みんな久しぶりねー。今年に入って以来だから、もう、一年近くになるのね」
「えーん、せんぱーい!」
懐かしがっている沙美の隙をついてなんとか逃げ出した真崎聖をよしよしと慰めながら、雄輔は皆の気持ちを代弁するように沙美に尋ねた。
「相葉君。今キミは、留学中のはずではなかったのかい。予定では、帰国するのはまだまだ先のはずだったが?」
彬と伸也も眉間にしわを寄せて同調する。聖は号泣しているのでそれどころではない。
「遠いところって、留学ですか……」
 とはノアエティルアの呟きである。確かにあんな説明のしかたをされれば誰だって誤解するよなと、彬はこっそり反省した。
「あー、留学ね。確かにまだいる予定だったんだけどさ。――飽きたから帰って来ちゃった」
「ああ、なるほど。それは仕方がないなあ」
「新田先輩! そんな説明で納得しないで下さい!」
 伸也がつばを飛ばしながらわめいた。
「だいたいおまえ、俺たちになんも言わずに勝手に留学しといて、それで今頃どのつら下げて帰ってきやがった?」
「なによ。あたしがあたしのことをどうしようとあたしの勝手でしょ」
「なにおう?!」
「それにしても、せっかく帰ってきたのに、なんか淋しいわね。誰もあたしが帰ってきたの歓迎してないみたい。ねえ、彬?」
 どことなく挑戦的な声音で、沙美は彬に向かって言った。
「……いや、そんなことはないよ。おかえり、沙美」
 言いながらも、彬は胸が苦しくなっていくのを意識した。
「彬は元気だった?」
 その声が――姿が様々な思い出をよみがえらせる。それが胸に詰まって、彬を苦しくさせていく。

 初めて会話したときに沙美が見せた笑顔や、いつもの勝気なまなざし、すねた表情、怒りのにじんだ声。いきなり後頭部に振り下ろされた、教科書がぎっしり入った鞄の重量感。強烈な回し蹴りを腹部に浴びせられ、丸一日なにも口に出来なくなった苦しみ。そして中等部だったころ、彬がついに沙美の背を追い越したときに、ぶち切れた沙美に脳天にかかと落としを打ち込まれたときの激痛と衝撃――
(これでたんこぶの分、また背が伸びたじゃない。良かったわねー! なんだったらもう少し高くしてあげよっか? あははははは!)

「……このやろうッ!」
 過去の記憶に、封印されていた怒りを蘇らせた彬を、雄輔が素早く羽交い締めにした。
「待て、はやまるな久瀬君! 忘れたのか? 相葉君は空手三段だぞ!」
「放して下さい、先輩!」
「なによッ、やる気? 彬のくせになまいきよ!」
 沙美が身構える。
「落ち着くんだ、久瀬君。流血の惨劇になるぞ!」
 制止する雄介の腕から逃れようと、彬は身をよじった。
「放して下さいッ! だいたいさっき見た写真だって、あれは俺の首に腕を回していたんじゃなくて、たんに首を締めてたんですよ、こいつは! 俺はあの時、酸欠によりもう少しで生涯を終えるところだったんだ!」
「そ、そういえばあの写真、心なしか久瀬君の顔色が変だったような……そうか、あれは酸欠状態(チアノーゼ)だったのか」
 雄介は納得顔でつぶやいた。
「今でも思い出すたびに胸を苦しくさせるあのときの借りを、今こそ返す!」
「上等じゃないの。彬のくせにあたしにたてつこうなんて、百億年早いのよ!」
 その時、いきなりドアが開いたかと思うとみずきが飛び込んできた。
「お兄ちゃん!」
「あ、やばいですッ」
 みずきを見た聖が、あわてて伸也の背中に隠れた。
「こっちに聖来てない? あいつ生徒会から召集かかってたのにこないのよ。学級副委員長(聖)の行動は学級委員長(みずき)の責任だとか言って、みずきが怒られたんだからね。なによ、だいたい聖はもともと生徒会の書記なんだから、みずき関係ないじゃない! これって八つ当たりだと思わない!? ――もうッ、あの生徒会長腹が立つったらーッ!」
「駄目だ久瀬君。いいから、落ち着くんだ」
「放して下さい、先輩!」
「なによ彬。かかってこないんならこっちからいくわよ!」
 沙美は半身に構えると、体を前後に揺らし始めた。空手独特のフットワークだ。
 そこでようやく沙美に気づいたらしいみずきは、目をキョトンとさせる。
「え、沙美さん、帰ってきてたんだ……あら? 聖、あんたやっぱりここにいたのね。なに坂上先輩の後ろに隠れてんのよ。だいたいあんたはやることがいっつも男らしくないのよ!」
「ご、ごめんなさ――」
「うっさい! 問答無用パンチ!!」
「とりゃ! かかと落とし!!」
『あうッ』
 みずきの鉄拳が聖におみまいされるのと、沙美の必殺のかかと落しが雄介に羽交い絞めにされていた彬の頭頂部に振り下ろされたのは、ほぼ同時だった。
「久瀬君? 大丈夫か――しっかりしたまえ! 久瀬君!」
 と、雄介。
「ひ、ひじり……生きてるかー?」
 とは伸也である。
「これって『熱いファイトの末のダブルノックダウン』っていうんですよね? 昨日読んだボクシングマンガみたいです……」
 それちょっと違う。薄れゆく意識の中で、彬はノアエティルアの言葉に最後のつっこみを入れた。

 軽音部――文化系クラブの中で唯一、生傷の絶えないクラブである。

   3

 ――その日の夜。彬はバルコニーで一人たたずんでいた。
 彼は今日、一つ気づいたことがあった。
「ノアって、『天然』だよな……」
 前から薄々気づいていたことだったが、どうやら間違いなさそうだ。
「まあ、いいんだけどさ。別に」
 最近のノアエティルアはよく笑う。ただ笑顔を見せるのではなく、声を上げて笑うのだ。出会ったころにみせていた遠慮がちな様子は、いまではほとんど見られなかった。
 今の彼女のことを死神だと言っても、信じるものなど誰もいないだろう。
「ユルガシィもあれから全然現れないし、平和だなー」
 ユルガシィ――それは夏休み中に突然現れた、ノアエティルアの元パートナーだという死神の名である。みずきの体を乗っ取ることによって現れたユルガシィは、みずきの記憶を無理やり操作し、そして告げた

「立場を早く理解して、誰にも真実をさとられないようにすることだ」

 自分がへまをすれば、自分以外の人間に害が及ぶ。彬は、ノアエティルアの正体を誰にも知られないように行動するしかなかった。
 そこまで考えて、彬は思わず吹きだしてしまった。
 ばらしたところで、だれが、こんな話を信じるだろう。死神が自分の命を救うために、家に居候しているなどということを。
 彬自身でさえ、たまに信じられなくなることがあるのだ。これはすべて、現実ではないのではないかと。やはり自分は、あの交通事故の時に死んでしまっているのではないのかと――
 あのときに自分はすでに死んでしまっていて、いまの現実はすべて、死後の世界の夢でしかないのではないのか。やがてはシャボン玉がはじけるように唐突に途切れてしまう、そんな、うたかたの幻のようなものでないと、なにが自分に証明できるだろう。
 と、たまに、そんなふうに考えることさえ彬にはあったのである。
 ――しかし、彬がそんなことを考えていたにせよ、いや、そんなことをのんびり考えていられる今の状況こそが、平和であるというなによりの証明だといえた。それは彬にも分かっていた。
 発作も、九月に入ってから起こったのは二度だけである。新学期一日目に起こったのが一度目。二度目が三日前の真夜中だ。真夜中でも発作が始まったらそうと分かるらしく、ノアエティルアはすぐに自分の部屋からとんできて治療をおこなってくれた。
 しかし、問題がなにもないのかといえば、実はそうでもない。
 たとえばみずきである。三日前、ノアエティルアが慌てて彬のところに駆けつけた物音でみずきの目も覚めてしまったらしく、何事かと彬の部屋を覗いたみずきが目にしたものは、例によってノアエティルアの治療の真っ最中といった場面であった。
「完全に誤解してるよな、やっぱり……」
 そのせいか、このところピリピリしていた様子のみずきだったが、それに追い打ちをかけるように今日、相葉沙美が留学先からの突然の帰国である。
 二人はなぜか、あまり仲が良くない。今日も、あの後の軽音部で――

「ほんと久しぶりですねー、沙美さん。しばらく見ないうちに、また少しスリムになりました?」
 そう言ってみずきは自分の胸の辺りで手を動かす。胸が小さいのは、沙美のコンプレックスの一つだった。
「そ、そうかしら? ……みずきちゃんは相変わらずかわいいのね」
「え、ホントですかぁ♪」
「ええ、前よりも顔が丸っこくなって、とってもチャーミングよ♪」
 みずきはこのところ、少し太り気味なのを気にしていた。
 みずきは笑った。沙美も笑った。そしてそのまま、伸也の奏でるドナドナのメロディにのせて、不毛極まりない会話がえんえんと続けられたのである。

「……それにしても。沙美のやつ、なんで急に帰ってきたんだろ?」
 それをいうなら、なんでいきなり留学してしまったのかも、彬には謎だった。
 もともと、沙美の考えていることは、彬には初めて会話をしたあのときから、まるで分からなかった。

 中等部の一年の時だった。初めて彬と沙美が話をしたのは――

   4

「ちょっとあんた、エンピツ貸してくれない?」
 一時間目の授業中、いきなりそう言って声をかけてきた後ろの席の少女に、彬は内心どぎまぎしながらエンピツを渡した。
 それが相葉沙美だと分かったからだ。彼女は中等部でも評判の美人で、男子生徒に大変な人気があった。気の強い性格が災いして彼女を嫌う人間も多かったが、少なくとも彬はその中の一人ではなかった。というより、興味がなかったというほうが正確かもしれない。
 しばらくしてから、彼女がまた話しかけてきた。
「ねえ、消しゴム貸してくれない?」
 少し考えて、彬は言った。
「……ふでばこ、忘れたんだね」
 沙美は怒ったような顔と声を向ける。
「そうよ、悪い?」
 それには答えず、彬は自分の消しゴムを二つに割ると、一つを彼女に手渡した。
「それあげるよ」
 憮然とした表情で、それでも沙美は素直に消しゴムを受け取った。

 その日の授業が終わって、特に部活動もしていなかった彬が帰ろうとしたときである。
「久瀬君」
 彬を呼び止めたのは沙美だった。
「――なに?」
「帰り、ちょっとつき合いなさいよ」
 彬がつき合わされたのはマクドナルドだった。そこでハンバーガーとジュースを二つずつ勝手に頼まれ、一緒に食べた。
「これで貸し借りなしよ」
 食べながら沙美は言う。
「あたしさー、人に礼言うの、なんか苦手なのよね。だから誰かに助けてもらったら、その分の借りはちゃんと返すことにしてるの」
 確かそのようなことを言ったのだったと思う。
 しかし、そのハンバーガーとジュースの代金は全部彬が支払ったのだが。
「あたしとこうして話が出来るなんて、あんた、すごくラッキーよ」
 ということらしかった。
 そのあと、いろいろと他愛のない話を続けていると、沙美が突然切り出したのだ。
「久瀬君、楽器とかって、興味ない?」
「楽器? フルートとかバイオリンとか?」
「バカ。ギターとかドラムとかの楽器よ。興味あるでしょ?」
 正直あまり興味などない。しかし、なんとなくそうは言えない雰囲気を察して、ここは話を合わせることにする。
 今思えば、それが始まりだったのだ。
「ほんと?! そうじゃないかと思ってたのよね。久瀬君、そういうの好きそうな顔してるもん」
 好きそうな顔というのがどんな顔なのか彬にはいまだに分からないが、そんな疑問を抱いている間にも、沙美の話はどんどん進んでいくため、彬の頭の中はどんどんこんがらがって、最後の方では自分がなにを言われているのかもよく分からなくなっていた。
「――で、どうなの?」
「え、うん。いいよ」
「よし、決まり!」
 生返事をしたあとに、やっと理解した。
「……バンド?」
「そうよ!」
 相葉沙美は力強く宣言した。
「うちの学園で、バンドを結成するの!」

 そうして、――まあ、いろいろと紆余曲折あって、いまの軽音部があるのである。だからある意味、軽音部は沙美が作ったのだといってもいい。
 とにかく、その日から彬と沙美の仲は急激な進展を見せることになった。
 そのころ人付き合いというものをまったくしなくなっていた彬と、ひたすら行動的な沙美との、その意外なツーショットは、学園でもかなりの話題になっていたらしい。

「おまえ、相葉沙美とつき合ってんのか?」

 今までに、何度そう訊かれたか分からない。そのたびに彬は否定していた。おそらく沙美のほうでも、同じような質問は何度もされていただろうと思う。

 ――そうして、月日が流れた。

 彬は背が伸びて、いつしか沙美を追い越していた。声変わりをして沙美に笑われた。ドラムが叩けるようになった。前より、人付き合いをするようになっていた。
 高等部に入って、はじめて沙美とクラスが別々になった。
 クラスが別々になると、軽音部で毎日のように会って話はするものの、以前のように休み時間も会話するというわけにはいかなくなった。
 そのころから、心なしか沙美の態度によそよそしさのようなものを、彬は時折感じるようになっていた。中等部の頃みたいに、思ったことをそのまま口に出す関係では、いつの間にかなくなっていた。

 そんなある日――確か文化祭が終わって、何日か経った日の昼休みだった。沙美がおもむろに切り出した。
「斉藤先輩って知ってる? サッカー部の」
「ああ、キャプテンだろ? 有名だよね。女子にも人気あるっていうし」
「告白されたの」
「……へ?」
「つき合ってくれって、そう言われたのよ」
「…………」
 彬はとまどっていた。
 なぜそんなことを、沙美は突然言い出すのだろう。
 沙美が誰かに告白されることなど、それほど珍しいことではないはずだった。それでも、いままで彼女は一度も、彬にそんな話をしてきたことはなかったのに、なぜ今回に限ってそんなことを言い出すのか。
「どう思う?」
 焦れたように、沙美は彬の顔をのぞき込んだ。
「……どうって……」
「つき合った方がいいか、よくないか。あんたの考えを知りたいの」
 彬は顔が赤くなるのを感じた。なにかが変だった。こんな奇妙な雰囲気は、苦手だと感じる。
 いつもはまったく意識しない沙美の真っ直ぐな視線が、なぜか気になってしかたがない。
「そ、そんなの自分で考えろよ!」
 逃げるように、彬はわめいた。
「自分で考えて、つき合いたいと思ったらつき合って、そうじゃなけりゃやめりゃいいだろッ。なんだよいったい、お前変だよ、そんなこと俺に聞くなよ!」
 そう一気に言ってから、彬は思わず息をのんだ。沙美は、真っ赤になっていた。
「……なによ」
 言ったきり、黙り込む。
 怒らしてしまったと、彬は思った。少し言い過ぎただろうか。見ると、顔だけでなく、目まで赤く充血している。
 言い過ぎただろうか。
 どうかしてる。
 なにもかもがどうかしていた。このごろおかしかった。ぎくしゃくして、ちっともうまくいかない。
 ――前は、こんなじゃなかったのに。
 これ以上なにを言っていいか分からず、とりあえず黙っていることにした。しかし、沙美もなにも言わないため、その気まずい無言の時間は、思いのほか長く続くことになった。
「……もう、いいわ」
 沙美がやっとそう言った。うつむいたまま、顔を見ず、顔も見せずに。
 そして、その場からいなくなった。

 その日から、沙美は軽音部にこなくなった。
 自然、沙美との会話は減った。たまに会っても、二言、三言話をするとなぜか会話が続かなくなって、そのまま別れる、そんな日が続いた。
 沙美を軽音部で見なくなって二週間が過ぎたある日、沙美とサッカー部のキャプテンがつき合っているという噂が彬の耳に流れ込んできた。休みの日に、二人が一緒に街を歩いているのを誰かが見たのだと、そういう話だった。
 そうか。と彬は思った。結局つき合うことにしたのか。
 自分なんかがなにも言わなくても、沙美は沙美自身で考えて、そしてそう結論を出したのだ。彬の知っている彼女なら、そうするはずだった。

 そして、また少し時が過ぎた。
 そのころには、二人の間にまったく会話はなくなっていた。たまにどこかで会っても、どちらともなく目を逸らすようになっていた。
 そんなときだった。
「彬、ちょっと話があるの」
 沙美が廊下で、いつものように通り過ぎようとした彬を呼び止めた。

「――ずっと、避けられてると思ってた」
 今はもう使われていない、建物が古く危険だということで立入禁止になっている旧館があって、古びた外壁に寄り添うように、やはり古ぼけた木製のベンチが放置されている。そのベンチに二人して座ると、おもむろに彬はそう切り出した。
 沙美はそれにはなにも答えなかった。言ったのは別のことだった。
「あたし、留学しようかと思ってるの」
 その日、初めてまともに目があった。
「どう思う?」
 じっとこちらを見つめて訊いてくる沙美に、彬はとまどう。留学?
「どうって……なんで留学なの?」
「いいでしょ、そんなことどうだって」
「それじゃ、わけわかんないよ」
「わかんないことないでしょ! 留学した方がいいか、しないほうがいいのか、あんたの意見を訊いてるのよ!」
「――しらないよ、そんなことッ!」
 彬は叫ぶように言った。まただ。言いながらそう思う。またたぶん、いやな展開になるのだ。
 けど、仕方がない。
 自分はいつもと変わらない。向こうが悪いのだ。変わってしまったのは、相手の方だった。
「いちいち人に訊かなくても、そんなこと沙美なら自分で決められるだろッ」
 いつだって、いつだって沙美はそうしてきたではないか。
 人の意見などろくに聞かず、いつも自分の道を突っ走ってきたはずだ。あとで後悔するにしろしないにしろ、いつも彼女は決して、人のせいにすることだけはしなかった。すべて、自分自身で受け止めていた。それが彼女のプライドではなかったか。自分の人生を自分で生きる――そんな当たり前のことを、沙美はいつだって大切に、その体で実践してきたではないか。
「……そう、わかったわ」
 それなのになぜ今、彼女はそんな顔をするのだろう。なにかに、今度こそ裏切られたというような、そんな目で、なぜ自分を見るのだろう。
「――バカッ」
 そう言って沙美は、彬を殴った。
「違うわね……」
 殴ってから、泣きそうな声でつぶやく。
 その言葉を聞きとがめた彬が顔を上げたときにはもう、沙美は駆け出していた。
 彬は呆然と、沙美の去っていく後ろ姿を眺めた。
 見えなくなってからも、ずっとその言葉が彬の頭の中で繰り返された。

 ……違うわね。
 バカなのは、あたしのほうだ。

 ――それからしばらく経って、沙美が留学したという話を知った。結局それは突然で、時期はずれもいいところの、動機もなにもまったくわけの分からない突飛な事件だった。
 その後偶然、沙美と付き合っていると噂されていたサッカー部のキャプテンが、友達に慰められているところを目撃した。
(あんたも、捨てられたんだな……)
 そう、自分たちは、捨てられたのに違いなかった。
 その認識は、彬の胸を締め付けた。みんな、自分の前からいなくなっていく。そう思った。

 ――そして今日、突然の再会である。
(また、なれるのかな……)
 昔のように。
 ただ、無邪気だった中学時代。
 二人で、息をするのも忘れて話した、あの日のように、もう一度――
 彬は一人首を振る。なれっこない。そんなことは分かっていた。
「俺はきっと、駄目なんだよ沙美……」
 変わってしまったのは相手の方だった。
 変わらなかったのは、自分の方だ。
 変われない。
 彬は胸を押さえる。
 ずっと昔――沙美に出会うよりも、もっとずっと前――あの頃の、ひたすら何かを失い続けた日々が、自分に変わり方さえ忘れさせてしまった。
 どこからかやってきたユミが、傍らで丸くなる。頭を撫でてやると、大きなあくびを一つした。
 屋根よりも高い、何の木だかもよく分からない昔からあるこの落葉樹は、今年もまた、葉を落として世話をやかせるのだろう。
 季節は巡り、時はただ過ぎていく。こうして、バルコニーに寝ころんで、猫の温もりを感じている今この時にも。
 何もかもが移ろっていく。だけど、凍りついたこの心はきっと、変わらない。
 彬は、強く胸を押さえた。
 ずっと昔、失ったものがある。それを思い出すと、胸が苦しくなる。
 胸の苦しみを消す方法を、彬は知らない。

    4

 そうしてまた、二週間の時が過ぎた。
 その間、発作は三度起きたものの、幸い下校途中のひと気のない路地や、家で起きてもちょうど二人以外に誰もいない時だったり、いたとしてもそれはユミだったりして、大した混乱もなく治療は行われた。比較的平穏に、彬の時は過ぎていった。
 そうして、九月ももうすぐ終わろうかというある日――
 軽音部を揺るがす、大事件が起こったのである。

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Posted by 千歳 at 2002年09月18日 16:01 EDIT
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歌集 ハナちゃん 2007/12/12
歌集 きよしとよしこの夜 2007/12/17
ドラクエ9短歌(作成途中) 2009/07/21
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長編小説
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HEART 第一話 KISS 2002/05/18
HEART 第二話 GOD OF DEATH 2002/06/18
HEART 第三話 高峯学園の新学期 ―the light music band― 2002/07/18
HEART 第四話 沙美、登場 ―OLD PHOTOGRAPHS― 2002/09/18
HEART 第五話 生徒会の挑戦 ―Let's play the greatest live― 2002/10/18
HEART 第六話 前哨戦 2002/11/18
HEART 第七話 INTERLUDE ―間奏曲 each other October― 2002/12/18

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