HEART 第六話 前哨戦

伸也と聖 VS 生徒会 学園祭の前哨戦で早くも火花が散る!

HEART 第六話 前哨戦 - 幾千の物語

2002/11/18UP

    1

「真崎君、おはよー」
「おはよう、恵子ちゃん」
「おはよう聖君」
「あ、おはようございます、幸子先輩」
「おっはよ、ひーちゃん」
「おはようございます。あの……ひーちゃんっていうの、やめてもらえませんか?」
「えー、いいじゃん、だってかわいいし♪」
「そういわれても……」
「んもー! 困った顔がまたかわいいのよー♪」
「わ。恭子先輩、やめてくださいッ。みんな見てますって」
 いきなり抱きつかれて、聖はわたわたと抵抗する。
「じゃあ、誰も見ていないところならいいの?」
「そんなこと言ってません!」
「ちょっと、あんたなに真崎君にちょっかいだしてんのよ」
「ンだよ」
 聖に抱きついている女生徒は、別の女生徒のその制止の声に顔をあげた。さっきまで聖に向かって出していた甘えた声とは正反対のドスの聞いた声で、制止しようとする女生徒を威嚇する。
「お前に関係ないだろ」
 しかし対する女生徒も負けてはいなかった。
「おおありよ! 真崎君に抱きついていいのはあたしだけなのよ」
「そんなこと誰がいつ決めた? 何時何分何秒?」
「あたしがたった今決めたのよ。ほらぁ、どきなさいよ」
「ちょっとやめてよ。あたしとひーちゃんの間に割って入ってこないでー!」
「あの、そこに僕の意見はないですか……」
 朝。学園でも屈指の美少年、真崎聖の学生生活は、毎日だいたいこんな感じでスタートする。
 他の男子生徒から見ればそれはかなりうらやましい光景なのだが、本人は決してそうは思っていないようである。
「ちょっと、そんなしたら服が破れますってッ。あああ、変なとこさわらないで……!」
 その時、遠くから真っ直ぐ聖に向かって来る存在があった。それを目にして聖の顔が輝く。もの凄い勢いで突進してくる彼に向かって、聖は手を伸ばした。
「坂上先輩! お願い、助け――え?」
「どりゃあッ」
「え?! あ、あああああぁぁぁ…………!」
 坂上伸也の容赦ないタックルを受け、そのまま連れ去られる聖の、それは遠ざかっていく声であった。
「……あ」
 しばし呆然としていた彼女らは、ようやく現状を把握したのだろう、二人して舌打ちした。
「しまった。拉致られた」
「くそ、逃げられたか」
「……ま、いいや。明日もあるし、さんざんセクハラしたし」
「恭子、数学の宿題やってきた?」
「げ、忘れた!」
「あたしやってきた」
「かなみーッ」
「ふっふっふっ、焼きそばパン一個」
「ええッ、高い! せめてメロンパンにしてッ」
「あの公式、決して安く売るつもりはないわよ」
 さて、聖は大丈夫だろうか。

「いきなりなんなんですか坂上先輩?」
 朝っぱらからかわいい(はずの)後輩を力ずくで拉致するというあまりにひどい行為に対し、せき込みつつも激しく訴える聖だったが、伸也の耳にはほとんど届いていないようである。
「……おまえ、毎日あんな目にあってんのか?」
「え……? ああ、あの人たちのことですか? ……まあ、そうですけど。僕がいくら言ってもやめてくれないんです。でも、今日は坂上先輩にこうやって拉致されたから彼女たちだけで済んで、それはそれでよかったかも……」
「彼女たちだけ?」
「はい、いつもならあの後もう二・三度同じようなことが……」
「……うらやましい」
 伸也は小声で呟くが、聖にはそれは聞こえていない。
「……まあいい。それより聖、これを見ろ!」
 そう言って、伸也は懐から厚紙を取り出すと、怒りに満ち満ちた激しい動作で広げて見せた。
 二人は第二校舎の北側屋上にいる。風で厚紙がはためくなか、聖はキョトンとそれを眺める。
「ポスターじゃないですか」
「ああ、そうだ。生徒会バンドの宣伝用ポスターだ」
 そう、それは生徒会バンドを宣伝するポスターだった。聖を除く生徒会のメンバー四人が、にっこり微笑む顔写真付きである。
「朝学校に来て、なにげに掲示板を見たら、一面にこれが貼ってあった」
「……それがなにか?」
「おまえ、腹が立たないのか? 奴ら、まだ文化祭まで一月もあるってのにもうこんな宣伝なんかしやがって、ぜんぜん実力で勝負する気なんかないんだぞ!」
「それはしかたないですよ。何事にも手段を選ばないのが、うちの生徒会長の基本的スタンスですから」
「全部はがしに行くぞ」
「え?」
「ポスターというポスター、片っぱしからはがして回ってやる!」
「ええ、今からですか?」
「あたりまえだ。このまま、奴らのいいようにさせてたまるかってんだ!」
「そんなに目くじらたてなくても……」
「るせえ! いくぞ、聖。さっさとしろ!」
「あーっ、この人本気だぁー!」
「ぐずぐずしてっとけっ飛ばすぞッ」
 そうして、泣く泣く生徒会の宣伝ポスターはがしに駆り出された聖である。
 が、

「ポスターなんてどこにもないじゃないですかッ」
「……おかしいな、さっきまであんなに貼ってあったのに……」
 聖の訴えるとおり、伸也の首を傾げるとおり生徒会バンドの宣伝ポスターなど学園中のどこをさがしても貼られてはいなかった。
「……いったいこれは、どういうことだ?」
 伸也は最初に自分がはがして持っていたポスターを眺めながら、しきりに首を傾げている。
「あのー」
「うん?」
 伸也が視線を移すと、そこには二人の女子生徒が立っていた。もじもじと、二人とも妙に落ち着かない。
「なに?」
 そう訊きながら、伸也の小鼻が膨らんでいるのを、聖はめざとく発見した。普段硬派で通している伸也だが、やはりこういうシチュエーションでは色々と期待してしまうものがあるに違いない。
 しばらくもじもじしていた二人だったが、ついに一人が切り出した。
「――あのッ」
「は、はい」
「そのポスター。いらないんだったら譲ってもらえませんか?」
「……へ?」
 伸也が答える間もなく、その女の子は彼の手からポスターを半ば奪うようにして取ると、二人して駆け去っていった。

(キャー。新田さん、超ステキ♪)
(ちょっと、あたしにも見せてよー)
(涼子お姉さまって、いつも凛々しいお顔だけど、笑ったらかわゆくなるのよね――)
(……ねえ、あの人、まだこっち見てるよ)
(え、だれ?)
(ほら、あの目つき悪い人ッ。たしか、軽音部の、ええと、坂上さんだっけ……)
(軽音部? あの部って評判悪いよねー)
(もしかして、坂上さんってあんたに気があるんだったりして)
(げー、やめてよ、あんなの趣味じゃないよー!)
(顔とか、爬虫類系だよね)
(やー、わたし人間がいいーッ)

「…………」
「…………」
 女子生徒たちのそんな声を聞きながら、聖は諒解していた。
 つまり生徒会バンド宣伝ポスターは、すべて熱狂的なファンの手によってとっくにはがされてしまっていたのだ。
「……あの二人、すごく嬉しそうでしたね……」
「…………」
 伸也はまだ無言である。今起こったことが、かなりショックだったらしい。
「いやー、けどこんな短時間で全部とられるなんて、ポスターを作ったものとしてはやっぱり嬉しいですね」
「なに?」
 その言葉に伸也は過敏に反応した。
「あのポスター、まさかお前が作ったのか?」
 ハッとして、聖は口元を押さえる。しまった。これは絶対怒られる。
「どうなんだ? おい!」
 しかし襟首を掴まんばかりの勢いで詰め寄ってくる伸也に、もうしらばっくれることなど出来そうにない。
「すみません僕が作りました! だって会長が、バンドとして軽音部に所属することは許してやるから、そのかわり宣伝の協力はしろって交換条件を出してきたんですよ。しかたないじゃないですかーッ」
「聖!」
「ああー、ごめんなさいぶたないでーッ!」
「軽音部のも作れ!」
「……はい?」
「目には目を、ポスターにはポスターを、だ。こっちもポスターを作って、大々的に宣伝するんだ!」
「そ……そんな二番煎じな……」
「お茶は二杯目が一番うまいんだ。いいから早く作れッ、さあ作れッ!」
「一体どうしたんですか、坂本先輩ッ」
 たまらず聖は叫んだ。
「昨日まであんなに張り切って、実力で勝負だ! みたいなこと言ってたじゃないですか。なんでそんな――今日になってそんなことばかりしようとするんですか、そんなの……」
 先輩らしくありません!
 そう叫ぼうとして、聖は伸也の目をまじまじと見た。
 それで気がついた。
「駄目だ……賞金に目が眩んでいる」
 生徒会主催、バンド対抗ライヴの優勝賞金は、百万円である。
 確かにそれは、学生でなくても十分な大金である。しかも、今まで浪費癖のある部長のせいでさんざんお金には苦労してきた伸也だ。百万という金額を聞いて、目が眩んでしまうのも、仕方ないといえばあまりに仕方のないことであったかもしれない。
 聖はため息をついた。
「……分かりました。作りましょう」
「そうかッ、作ってくれるか!」
 ――大丈夫。
 聖は思う。
 坂上先輩なら、きっと気づいてくれる。
 そんな方法は、自分にはまったく似合わないのだということに。そして大会で優勝することよりも、もっとずっと大切なものがあるということを。
(きっと、先輩ならそれを思い出してくれるよ!)
 聖はそう信じていた。
 それまでは――そう、それまでの間は、この人につき合ってあげよう。
 軽音部のために、いつも誰よりも一生懸命だったこの人のために、僕が。
「よし、ならさっさと作ろうぜ。いいか、一時間目の授業が始まるまでには仕上げろよ」
「ええ? そんな、無理ですよ。まだ構成も練ってないのに……」
「うるさい! 出来るまで、授業には出させんからな! きりきり作れ、きりきり!」
 少なからず不安になってきた聖である。

    2

 昼休みになって、伸也はまたも聖をつかまえた。
「今度はなんですか、坂上先輩」
 生意気なことを言う後輩に、伸也は辛抱強く説明する。
「これを見ろ」
 そこには掲示板があり、その掲示板にはポスターが貼ってある。
「僕が一時間目の授業に遅れながらも、なんとか作り上げた軽音部の宣伝ポスターですね。これがどうかしたんですか?」
 後輩の最大限の抵抗(いやみ)を聞き流し、伸也は問う。
「なぜ、まだここにある」
「……はあ?」
「なんでまだ盗られてないんだよ!」
「そんなこと僕に訊かれても……あ、ほら、ちゃんとポスターに、『お願いだから盗らないでね♪』って、書いてあるからじゃないですか?」
「そんなの、熱狂的なファンがおとなしく聞くわけないだろ!」
「軽音部に熱狂的なファンなんて、ついてるんですか?」
「しらん。しかし隠れファンの一人や二人いたっていいはずだ」
「そんな夢見がちな……」
「くそう――まあ、ポスターはいい――行くぞ」
「え、どこにですか?」
「中庭だ」
伸也は聖がついてくるのも確認せずにすたすたと歩き出した。
「そこで生徒会が、サイン会をやっているらしい」

 サイン会は盛況だった。
 押すな押すなの人だかりである。全身水浸しで震えているものがいるところを見ると、押し合いへし合いのうちに何人かあやまって池に落ちてしまったらしい。
「すごい数の人ですねー。やっぱり生徒会って人気あるんだ」
 脳天気な聖の声を聞きながら、木の陰で伸也は歯ぎしりする。
「……こうなったら軽音部もやるぞ」
「え、なにをですか?」
「決まってるだろう。サイン会だ」
「……それだけは絶対にお願いですからやめて下さい」
 結局、聖の強い反対に負け、サイン会は諦めた伸也である。
 とりあえず、聖に生徒会のメンバー説明をさせることにする。
「じゃあ、財政管理部長から……」
 聖は手帳を取り出すと、頬を染めて感激している少女と握手を交わす、いかにもさわやかな少年を指さした。
「彼が生徒会財政管理部長の丘野正人です。僕と同じ一年生ですが、サッカー部のエースストライカーです。童顔なフェイスと無邪気な笑顔、それと少しやんちゃな行動が、特に上級生に受けているようです。当然、スポーツ万能であるところも人気の重要な要素の一つで、彼のファン層は上級生を中心としながらも、同級生や中等部の子たちにも確実に広まっています」
「なるほど。次ッ」
「次は広報部長です」
 聖の指さしたのはショートカットのよく似合う、活発そうな少女である。
「高等部二年の猪俣涼子さんです。彼女は子供のころから空手を習っていて、以前美少女空手家としてテレビに出演したこともあります。そのスレンダーなボディから放たれる回し蹴りを、一度でいいから受けてみたいという武闘派系男子生徒は非常に多いです」
「……どういう感覚だ」
「ただ彼女の場合、最近になってその人気に翳りが見え始めた傾向があります」
「――ほう。と、いうと?」
「二週間ほど前、沙美さんが留学先のイタリアから帰ってきたでしょう」
 聖のその言葉に、伸也は大いに納得した。
「なるほど、あいつも格闘少女だった」
「今、武闘派系男子生徒たちの間では、猪俣涼子の回し蹴りと相葉沙美のかかと落とし、どちらがより美と破壊力とを兼ね備えているかで熱い議論が繰り広げられています」
「……なんかうちの学園って、ホントにバカばっかりなのな」
「あ、今思いっきり自分のことを棚にあげているでしょ」

「――ん?」
 聖にヘッドロックしていた伸也は、猪俣涼の前に並ぶファンの中に、一つの疑問を見つけだした。
「おい、あれ……」
「ぐ、ぐるじい。ごめんなさい。もう生意気言いませんからやめてください」
 ヘッドロックを解いてやると、聖は頭を押さえてうずくまった。
「猪俣涼子のファンの列、なんか女の子が多くないか?」
「うう……そうなんです」
 聖は頭を振りながらうなずくという器用な動作をしてのけつつ言った。
「猪俣先輩のファン層は、大きく二つに別れます。先ほど説明した武闘派系男子生徒が一つと、もう一つは一見普通の女子生徒です。彼女たちの多くは、猪俣さんを『お姉さま』と呼んでしたっています」
「……もったいない」
「はい?」
「いや、なんでもない。続けてくれ」
「はい――次は会長補佐、椿小枝さんです。彼女はあの椿財閥の長女で……」
 聖の説明を聞きながら伸也は、ファンの一人ひとりに清楚な微笑みを返している椿小枝の姿に目をすがめた。
「……あいつはいいよ」
「――え?」
「椿の事は説明しなくていい」
「あ、そうですね。坂上先輩とは同じクラスだし、説明の必要もないですね」
「……良く知ってるな、おまえ」
「そりゃもう、坂上先輩と椿先輩は、一部ではうわさの二人……いえ、なんでもないです」
 ……どうも、いらない噂が流れているらしかった。伸也は溜息をつく。
 気を取り直したように、聖は続けた。
「……次は最後になります。生徒会長の新田次郎さんです。高等部の二年生で、軽音部の新田部長の実弟です。スポーツ万能、頭脳明晰、甘いマスクに紳士的な態度が、多くの女子生徒から圧倒的支持を集めています。ただ、時折目的のためには手段を選ばない非情な一面を見せることもあり、彼に反発を覚えている生徒も少なくありません」
 新田次郎は堂に入った笑顔で、ファンに握手をかえしている。
「以上の四人が、生徒会のバンドのメンバーです。ただ、誰がどの楽器を担当するかは不明です。いずれにしても、彼らの個々の人気は非常に高く、彼らが行動をともにしたときの学園生徒に与える影響力には、計り知れないものがあります」
「なるほど、ところで聖」
「はい?」
「確かお前にもファンクラブがあるんだったな」
 聖は顔を赤くして頷いた。
「いま、何人いるんだ?」
「……すみません。良く知らないんです」
「……まあ、いい。その票は確実に確保しろ、わかったな」
「……はい……坂上先輩?」
「なんだ?」
「……いえ、なんでもないです」
(――軽蔑されてるかもしれないな)
 伸也はふと、そんなことを考える。
 聖に、軽蔑されているかもしれない。
 それでもかまわなかった。誰にどう思われようとも、優勝しなければならないのだ。
 優勝したら、賞金の百万円で部長の使った部費を補い、さらに新しい機材も購入できる。逆に、優勝できなければ軽音部は消滅する。
 優勝するとしないとでは、まさに天国と地獄である。
「とにかく、軽音部はなにが何でも勝つ。そのためなら……」
 なんだってやってやるッ。
 伸也がそう決意を新たにしていたときである。聖が驚きの声を上げた。
「沙美さん!」
 少し遅れて伸也も聖の驚きの意味を理解した。なんで――
 なぜ沙美が、生徒会に混じってサイン会に出席しているのだ?
「どーいうことだ、沙美!」
 伸也は人混みを押しのけ押しのけ、面倒くさそうにサインを書いている沙美に詰め寄ると、そう問いつめた。
「――あら、伸也。あんたもあたしのサインもらいに来たの?」
「んなわけないだろうが! どういうことだ、沙美。おまえいちおう軽音部の部員だろうが! 留学から帰ってきたくせに一度も練習に出てこないと思ったら、なんで生徒会のイベントにいるんだよ!?」
「あー、まだ言ってなかったっけ。あたし、生徒会バンドに参加することにしたから」
「な……? おまえ、いま軽音部がどういう状況か分かってて言ってんのか?」
「優勝しなきゃなくなっちゃうんでしょ。知ってるわよ、それくらい」
「だったらなに敵の味方してんだよ! ○○(自主規制)かおまえは!」
「○○(自主規制)はあんたでしょ。敵とか味方とか、バンドやるのにそんなの関係ないっての」
 沙美はバカにするように言い放った。
「軽音部は、あたしがいなくてもちゃんとやれてるじゃない。あたしはもっと自分を必要としているところがいいのよ。だって、そのほうが楽しいでしょう?」
 沙美のその単純明快な返答に、伸也は顔を赤くする。
「楽しい、だと……?」
 今は、そんな事を言ってられるような時ではないのだ。
 俺が、これだけ苦労してるというのに。
 こいつは、なにも分かっていない。
「坂上君、ここになにしに来たんだ?」
 伸也は振り向いた。そこには冷たい表情をした新田次郎が立っていた。
「ここはキミのいるところではない。帰りたまえ」
 伸也は実は、それほど次郎のことは嫌いではない。それどころか、クラスが同じ事もあって今までよく話しもしたし、遊んだりもした。友達といってもいいぐらいの関係を、これまでに築いてきていたのである。
 しかし、今の次郎の自分を見る目は、まったくの他人を見るような、そんな冷たい眼差しでしかなかった。
「帰りたまえ。それとも、叩き出されたいのか?」
 ギリッ。
 噛み締められた伸也の奥歯が軋み音を鳴らした。
「……上等じゃねえか、この野郎ッ!」
 激昂した伸也は、我を忘れて次郎に殴りかかろうとした。
「伸也さん!」
 椿小枝の声に、振りかぶった拳を止める。
(――くそッ)
「……くそおッ!」
 伸也はそう吐き捨てると、拳を引っ込め、きびすを返した。
「聖、行くぞ!」
「は、はい……」
 そのまま、振り返ることなく、伸也と聖はサイン会会場を立ち去った。

    3

 伸也が苦い思いを胸に去った後、サイン会会場ではこんな会話がされていた。
「まったく、野蛮な男だ」
「彼は責任感が強いんです。それがたまに、行きすぎてしまうんですわ」
 椿小枝は次郎を見上げると、からかうように微笑んで見せた。
「彼のそんなところは、あなたもよくご存じでしょう?」
「……まあね。僕は結局、彼のことは結構好きなんだ。まあ、坂上君のことだ、すぐに気づくだろう。いまの彼が、彼らしくないということに。僕がいま、非常に僕らしいというのと同じようにね」
「会長は、本当に勝負ごとがお好きですから……」
「ああ、好きだとも。それも勝つ勝負がね。今回は、僕は必ず勝たせてもらう。伸也にも、兄さんにもだ」
 次郎は両手を軽く広げて見せた。
「信じられるかい。僕ほどの男が、今まで一度も、兄さんにだけは『勝った』と思えたことがないなんて。もう、今では立派なコンプレックスだよ、これは。」
「あなたのお兄さまは、立派な方ですよ」
「分かっているさ、そんなことは。だからこそ、僕は兄さんを越えたいんだ。――とにかく、今回は絶対に勝たせてもらう。ただ……」
 そこで、次郎は意味ありげな笑みを、その甘いマスクに浮かべるのだった。
「伸也との、キミを巡る戦いには、どうやら僕は敗色濃厚のようだけどね」
「あら、まだわかりませんよ」
 二人して笑った後、次郎はついでのように言った。
「今日の放課後、また軽音部を訪れることにしよう」
「はい」
 椿小枝はうなずきながら、スケジュールがびっしりと書き込まれた手帳にさらさらと新たな予定を書き込んでいく。
「本当に、勝負に関しては手間を惜しまない人……」
「一部で言われている、僕が目的のために手段を選ばないタイプだという噂。あれはしかし、間違いだよ」
 悲劇的な仕草。
「僕には目的のために手段を講じて、その手段にこだわるあまり目的を失念してしまうという、非常に困った性癖があるんだよ」
「ちょっとあんたたち、この忙しいときになに話し込んでんのよ!」
 沙美がサインを書く手を止めてわめいた。
「こっちは忙しいのよ。そんなにしてたら昼休み終わっちゃうじゃないの!」
「すまない、今行くよ」
「あんたが泣いて頼むから、幼なじみのよしみでバンド手伝ってあげてんだからね。わあってんのッ?」
「分かってるよ、さっちゃん」
 沙美に弱気な声を返しながら、次郎は小枝に片目をつむってみせると、そそくさと自分の席に戻っていったのだった。

    4

 その日の放課後、伸也のドナドナが響きわたる軽音部に、次郎と小枝の余裕の訪問があった。ひとしきり軽音部の面々をからかい去っていった人望厚き生徒会長に、偶然その場に居合わせたみずきが舌を出す。
「みずき、あのひと大っ嫌い!」
 次郎と小枝がいた間も、伸也はドナドナの演奏をやめなかった。
 生徒会長のいやみと伸也のドナドナが、軽音部の空気をひたすら重くしていた。
  その時である。一曲の音楽が、全校放送用のスピーカーから流れ始めたのは。
 伸也はドナドナを弾く手を止め、耳を澄ました。
「え、この曲……」
 彬が椅子から腰を浮かす。
「わあッ――みなさんの曲ですね、彬さん」
 ノアエティルアが歓声を上げる。
「あ、この歌みずきの好きなやつだぁ」
 みずきがそう言って瞳を輝かせた。
「新田部長!」
 はっとしたように、聖が軽音部部長の男の名を呼んだ。
「これ部長の仕業ですねッ?」
「そうだよ真崎君。放送部にいる友人になんとか頼んでみたんだ。先生の許可も貰ってある。曲が終わるまで、なにがあっても放送部の鍵を開けないでくれと言ってあるから、次郎は今回、さすがに打つ手がないだろうね」
 雄輔は楽しげに――少しだけ、してやったりといった顔で続ける。
「まあ、こちらの技有りといったところかな」
 聖の少女のように高い歌声が、伸也のギターや、皆の演奏とともに今、学園中を流れている。
 それは考えるだけで楽しくなる、確かな現実である。そして楽しいのはそれだけではない。流れている曲自体が、聴くものの心を、不思議と浮き立つような気分にさせていくのだった。
 それは、歌詞でもメロディでもなく――
 全然違うところで――ただ、ハートが共鳴する。

   この坂を
   風を追い越す自転車に乗ってブレーキ踏まずに走り抜けたらきっと
   もう、あたしにはなんだって出来る

   なにも知らないままなんてゼッタイ! にイヤ
   そんなの死んだ方がまだましだから
   子猫のようにかわいらしくて、
   なにも知らないままでなんていたくない

   Wanting to meet you

   信じられる?あなたに会えないかもしれなかったなんて
   そんなのよりずっといい
   だからさよならも嫌じゃない
   ミャオがいなくなった時みたいに、ほら知らないうちに涙がでてる
   なにもないよりずっといい

   つらくて
   息できないくらいでも、
   なにかが切り落とされても翼が消えてしまっても
   いつだってあたしは笑ってみせよう
   きっといつか、本物の笑顔に変わる

   だからいつだって
   そう――いつだってあたしは笑っていよう

(だって、その方が楽しいでしょう?)

 これはそう言い放った――
 あいつが作った歌だ。

(敵とか味方とか、バンドやるのにそんなの関係ないっての)

「…………フッ」
 堪えきれず、伸也は吹きだした。
「はははッ、ははははははッ」
「ど、どうしたんですか、先輩! ついに壊れちゃったんですか!?」
 聖の心配する声にお構いなしに、伸也は声を上げて笑い続ける。
「はははははははは、はッ!」
 どうして、今まで気がつかなかったのだろう。
 忘れていられたのだろう。こんな単純な事実を。すごく簡単なことだったのに、なぜ分からなくなっていたのだろう。
 そう。
 いつもそれだけが、一番大切だった。

 ――俺はなぜギターを弾くんだ?

(ギターが好きだからだ。好きで、好きで、堪らないからだ)

 ――なぜバンドをやる。

(こいつらとやってると、最高にハイになれるからさ! 他になにがある!)

 他になにが必要だろう。ただ、ギターを弾くことの――バンドをやることの理由に。

 俺にはただ、それだけなんだ。

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Posted by 千歳 at 2002年11月18日 16:05 EDIT
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