HEART 第七話 INTERLUDE ―間奏曲 each other October―

二週間前に迫った学園祭を前に、それぞれの想いが静かに交錯する。

HEART 第七話 INTERLUDE ―間奏曲 each other October― - 幾千の物語

2002/12/18UP

    1

「ねえ、ノアさん」
 夕飯の後片づけをしながら、みずきはおもむろにノアエティルアに話しかけた。
「なあに?」
 皿を拭きながら、ノアエティルアが答える。
「みずきとお兄ちゃん、血が繋がってないって、知ってるでしょ?」
「……うん」
 みずきの母親と彬の父親は、八年前、彬が九歳、みずきが八歳の時に再婚したのだ。その時から、彬とみずきは兄妹になったのである。
 ちなみに、みずきはノアエティルアを今の父親の姪だと認識しているから、みずきとノアエティルアはまったく血が繋がっていないということになる。もちろん本当は、ノアエティルアは誰とも血縁関係にはないのだが。
「……みずきね、昔、お兄ちゃんを死神って呼んでたことあるんだ」
 ノアエティルアは皿を拭く手を止めた。
「……死神?」
 みずきはうなずきつつ続ける。
「お兄ちゃんね、かわいそうな人なの。ノアさんにも関係あるんだと思うけど、お兄ちゃんが小さかったころ、お兄ちゃんの兄弟とか、おじいちゃんとか、おばあちゃんとか、本当のお母さんとか、友達――そんなお兄ちゃんにとって大事な人たちが次々と、事故とか病気とかで死んじゃったの」
 それは、みずきが話でしか聞いたことがない事実である。お互いの親が再婚して、みずきが初めて彬と逢ったときには、彼はすでに、いつも傷ついた顔をしているような少年だった。
 それでもみずきは、自分に新しくできた兄に、よくなついた。
「お兄ちゃんそのころは、学校でよく苛められてた。死神、死神って。あいつに近づくと魂をとられるぞって……みずき、そんなこというやつみんな、ぶっ飛ばしてやったわ」
 そんな日々が続くうちに、彬も徐々にみずきに心を開くようになってくれた。しだいに二人は、本当の兄妹のようになっていった。
「けどね、ある日、ママが事故に遭って……そのまま――」
 死んじゃった。
 みずきは言う。かすかに唇を震わせながら。
「みずきさん……」
「みずき、お兄ちゃんを見て叫んだわ。この死神! ママを返せ――みずきのママを返して! って。お兄ちゃんのせいじゃないのに……」
 その日以来、彬は笑わなくなった。
「お兄ちゃんがまた笑うようになるまで、すごく時間がかかったの。何年も、何年も――。それでも、前みたいには笑ってくれなかった。お兄ちゃんは壁を作ってた。高くて厚い壁で、自分をかこっていた」
 そして、沙美が現れた。沙美は彼のそんな壁を無視して彬に接した。やがて彬は楽器を始めた。軽音部が出来て、ライヴを披露するようになった。本当に楽しそうに彬が笑うのを、その時何年ぶりかに、みずきは見た。
「みずき、ひょっとしたら沙美さんがお兄ちゃんの壁をなくしてくれるかもしれないって、そう思ってた」
 だけど、無理だった。沙美は彬を置いて海外に留学してしまった。
「けど……ノアさんなら、できるかもしれないね」
 みずきは、こみ上げてきたものを隠すようにして顔を伏せた。
 彬はずっと叫んでいる。みずきにはその声がかすかに――確かに聞こえてくる。壁の奥――高くて厚い、自分で作って、そして閉じこめられた壁の中で、彬はずっと助けて欲しいと、悲痛な叫び声をあげていた。
「みずきさん……彬さんのことが、好きなのね」
 みずきが顔を上げた。
「おーい、ノア――」
 唐突に彬が台所に入ってきた。手には通学用のシャツを持っている。
「ボタンとれちゃってさ。つけてくれない?」
「あ、はい」
「ほらここ」
 シャツのボタンが取れた箇所を、額をくっつけあうようにして確認している二人を目の前にして、みずきは思わず目を伏せた。
「あ、お風呂忘れてたっ。お湯とめてくるねっ」
 そう言って台所を飛び出す。
「――おいみずき、あんまり走るなよ。廊下の床古いから抜けるぞ」
 彬のそんな声を無視して、風呂場まで駆ける。
 風呂場について、お湯の出ている蛇口を閉めながら、みずきは息をつめた。
「みずきは……」
 泣き出すような声。
 胸が苦しい。嫉妬している。前に二人がキスしていたのを見たときからだった。
けど、それだけではない。二人はいつも一緒にいるから。二人とも、優しい目で相手を見るから――!

(みずきさん……彬さんのことが、好きなのね)

「そうよ。みずき、お兄ちゃんが大好きだもん」
 ――大好き。
 はじめて逢ったときから。
 ずっと、好きだった。
 ――がみよ!
 みずきはきつく目を閉じる。
 よみがえってくる。大好きな人を追いつめた言葉。みずきが、あの人を傷つけた。

「――あんたなんか死神よ! 近寄らないでッ、こっちに来ないでッ、みずきのものにさわらないでッ! 返してよ、ママを、みずきに返してよう!」
 辺りのモノを手当たり次第に投げつけるみずきを、彬は強く抱きしめてくる。その体でみずきの怒りを受け止めて、自身も泣きながら。
 ――ごめんよ、みずき。俺は……!

 誰よりも傷つけた、誰よりも好きなひと。
 いちばん近くにいるひと。
 近くにいすぎて、これ以上近づけないひと。だからみずきは、きっと助けてあげられない。

 蛇口からこぼれる水滴とともに、みずきは少しだけ泣いた。

    2

「きれいですね」
 十月初旬の満月だった。
 二階にあるベランダで彬を見つけて、ノアエティルアは目を細めてそう言った。
「ノア……」
 ベランダに先に座り込んでいた彬が振り向いた。こちらを見て、なにか言いたそうにしている。
「――はい?」
 しかしそうやって訊くと、いつも彬は慌てて目を逸らすのだ。
「月を見にきていたんですか?」
 彬の隣に座ると、ノアエティルアは顔をのぞき込みつつ訊ねる。
「う、うん……」
「私もそうです」
 ノアエティルアは、確認のためにここに来ていた。
 月の、蒼い、冷たく澄んだ輝きを眺めていると、自分の心も澄んでいくのがわかる。
 そしてノアエティルアは確認するのだ。自分がここにいる意味を。なすべきことを。守るべきものを。
(私は、彬さんを守ってみせる)
 固い決意として、その思いはいつもノアエティルアと共にある。
 だけど――
(私には……)
 本当はそんな資格は、ないのかもしれない。
 彬のそばに、自分は本当はいてはいけないのかもしれなかった。
 ――それでも、私は彼を守りたい。助けたい。
 彼は許してくれるだろうか。
 自分の、この偽善に満ちた行為の奥にある、真実を知ってしまったら。
 ノアエティルアは首を振る。かまわない。許してくれなくてもかまわない。
 ただ、あなたが生きていてくれたら……
 少し肌寒い風が吹く。あの風鈴がまた鳴っている。
 木の葉が、風に揺られてカサリとベランダに落ちた。
 彬がそれを手にとって息を吹きかけた。木の葉はまた落ちていく。
 夜の空にくっきりと浮かぶまるい月が、この世界を照らしている。
 私たちのことも照らしている。
「彬さん?」
「なに?」
 ノアエティルアは彬の肩にもたれかかった。
「――がんばりましょうね」
 がんばって、生きましょうね。
 だって、ほら。
 この世界は、こんなにもきれいだもの。

    3

「よう、彬。めずらしいな、おまえがここに来るって」
 二年十五組の教室にやってきて、キョロキョロしていると、伸也がそう声をかけてきた。
「伸也――」
(そうか――)
 ここは、伸也のクラスでもあるのだ。
「ああ。これを新田に渡しに来たんだ」
 そう言って、彬はズボンのポケットからカセットケースを取り出す。
「なんだ、それ?」
「バン対の、予選用のテープだよ」
 学園祭に行われる、バンド対抗ライヴ合戦は、いまではそんなふうに省略されて口の端にのぼることが多くなっていた。
「予選? そんなのやるのか」
 自分の席に座ったまま、伸也は初めて聞いたといった様子で言う。
「なんだ、知らなかったのか? なんでも賞金につられてか、参加バンドが三十組を超えたから、予選をやって減らすことにしたらしいよ」
「……そういえば、そんなことを言ってたような気もするな。――最近俺、駄目だな」
 伸也のその言葉の意味を、彬は理解しているつもりだった。
 伸也はこのところ、なにかに吹っ切れたかのように、ギターにどっぷりはまっていた。クラブ活動でも、喋ることさえろくにせず、ひたすらギターを弾いている。
 ギターを弾くのが、ただ楽しくて仕方ない。そういう感じだった。
 伸也は舌打ちしながら続けて言った。

「そうか、予選テープか……。まさか次郎のやつ、予選で俺たちを落としゃしないだろうな?」
「まさか」
「いいや、わからんぞ」
 伸也は指を立てる。
「あいつは、目的のためには手段を選ばないやつだからな。それくらいのことはやりかねん」
「……そうなのか?」
「ハハハ。冗談だよ、じょーだん」
 あっけなく、伸也は白状する。
「次郎はそんなことしねーよ。あいつは勝つことじゃなくて、勝ったと自分が思えることが大事なやつだからな。どんなに小細工しても、最後の決着はライブでつけるはずさ」

 ――ああ。

 この二人は、友達なんだな。と、彬は思う。
 はたから見て、どんなに仲が悪そうに見えたとしても、そんなことは全然関係なくて。
 お互いを、彼らは認めあっている。それはきっと、友達だということなのだろう。そう、彬は思った。
「……で、新田は?」
「あれ、いないか?」
 教室の中を二人して見回すが、生徒会長の姿は見あたらない。
「……椿もいないな。たぶん、文化祭の打ち合わせかなんかだろ」
 十一月の学園祭まで、後二十日を切っている。生徒会は今、大忙しのはずだ。
 そんな中で、生徒会バンドの方は果たして大丈夫なのだろうか。敵ながら、少し、心配してしまう彬である。
「まあ、いいさ。テープは俺が渡しといてやるよ」
 伸也はそう言って手を差し出した。
「……大丈夫か?」
「……どういう意味だよ」
 憮然とする伸也。
 もちろん、相手が普段の伸也なら彬はそんな心配などしない。
 いつもの伸也はむしろ神経質で、一度頼まれたことなどは絶対に忘れないタイプだから。
 本当ならこの予選テープも、彬が用意する必要などまったくなかったはずである。伸也が、率先して作ったに違いないのだ。
 ――ただ、やっぱり今の伸也は少し違うから。
 本当に、ギターに――バンドに熱中しているから。
 そんな伸也を、うらやましいと思っている自分に気づき、彬は一人苦笑した。

「大事なもの、か……」
「え? なんですか、彬さん?」
「いや、なんでもないんだ……」
 その後、中間テストの出来について少し話したりしてから、彬は伸也と別れ教室を出た。
 教室の外で待っていたノアエティルアを連れて自分のクラスに帰る途中、彬は思う。

 ――大事なもの。

 以前は、たくさん持っていたと思う。
 今ではほとんど無くしてしまっていた。
(大事なもの。壊れるもの。失ってしまうもの。離れていってしまうもの――)
 そんなものは、何もいらない。
 いつか失ってしまうと分かっていて、どうして心を寄せられるだろう。
(もう、嫌なんだ……)
 別れはいつも、あんなに悲しいから。

 もうなにも失いたくはない。
 だから最初から、なにも持たない方がいいのだ。

    4

 学園は浮き足立っている。
 学園祭が近いからだ。
 十月も半ばを過ぎ、下校時間は今日から八時に引き延ばされる。みんなが忙しそうに走り回っている。椿とも、もう長いこと話もしていない。
 昼休み、伸也は第二校舎の階段をのぼっていた。この階段の向こうに屋上がある。
 ――そこでなら。
 こいつに。
 いまこうして担いでいる、長くて重たくて、持ち運ぶのには実は全然向かないこの最高のやつを、思いきり弾いてやれるだろう。
 階段を上がっていくにつれて、辺りが暗く、静かになっていく。ここには人がいない。だから、最後はいつも自分の足音だけになる。
 掃除さえろくにされない、埃にまみれたこの階段を上がるのは、もうこれで何度目になるのか。
 たぶん自分の足跡だらけの暗い階段を、ただ堅い靴音だけが響き渡る。
(まだか)
 伸也は焦れて奥歯を噛みしめた。
 まだか、上は。
 いいから。
 歩くとか、息をするとか、そんなことはもういいから――
(とにかくこいつを)
 俺が、どうにかなってしまわないうちに、
(俺にこいつを弾かせろよ!)
 手と、足が痺れている。疲れたとか、そんなんじゃない。心臓の音がガンガン響いてやかましい。疲れたとかそんなんじゃなく――
 こいつを弾けば体の痺れなんてすぐに消えてしまう、そんなことは分かり切っていた。心臓の音なんて、気にもとめなくなる。
 はやく。
 心臓の音がやかましい。伸也は足を速める。この踊り場を越えれば、そこにドアが見える。

(はやく!)

 伸也はドアのノブに手をかけた。
 たぶん本当はたいして明るくもない、それでも暗い階段をじっとのぼってきた伸也には思わず目を覆ってしまうほどの光――灰色の空から放たれる光と、乾いた風。
 それらが、無防備にドアを開けた伸也に一斉に襲いかかり、飲み込もうとする。
「うるせえ」
 伸也はすがめた目で探す。
 いつもの場所。
 風雨に嫌になるほど痛めつけられた、埃にまみれたむき出しのコンクリートの地面と壁のその場所に、はまり込むように座る。
 待ちきれず震える手で、それをギターケースから取り出した。
 風が伸也より先に弦を鳴らす。俺のもんを勝手に弾くな。あんたには電線とか、木の枝とか、四角いビルの隙間とか、他に色々あるだろう?
 そんなもので、あんたは自分を証明すればいい。
 俺にはこれしかないから。
 だから俺は今こいつを弾く。ようっ、やっとまた会えた――!

 手からピックが飛んだ。伸也は現実に戻った。手が汗に濡れていた。それでピックが滑ったのだろう。息が乱れていた。体中汗まみれだった。目の前に彼女がいた。
「……椿……」
 伸也は惚けたように呟く。掠れた声が出た。
「伸也さん」
 目の前の椿小枝はそれだけ言う。いつもだ。いつも、彼女は俺にはあまり喋らない。
「あ」
 伸也は小枝の腕を取り、引き寄せる。そのまま奪うように唇を重ねた。
「――今、何時だ?」
 唇を放して、小さな頭を撫でながらたずねる。
「……三時を過ぎたところです。午後の授業、もう、出られませんね」
「――ひょっとして、ずっといたのか? 昼休みから?」
 小枝はうなずく。
「二人して授業を二時間も欠席して――また、噂になります。きっと」
「……そうだな」
「嫌ですか――?」
 噂になるの。
 首を傾げて訊いてくる。少し開いた唇のすき間から、小さな歯がわずかに覗いている。
「別に……」
 風が吹いている。吹きさらされるままの小枝の髪の毛を、伸也は手ですくうようにした。
 つややかで、素直な髪の毛。椿にそっくりな。
「別れようか」
 発作的に伸也は言った。
「どうして?」
「見てたんだろ、ずっと――」
 ずっと、見ていたはずだ。自分とギターの、それだけですべての空間を。他にはなにもいらないと、口に出して言うよりも百倍確かな、証明を。
「あなたは、ギターを弾くことで、わたくしに負い目を感じているんですね」
 小枝は微笑んだ。
「だったら別れません。比べられているだけ、少なくともわたくし、あなたの中にいますもの」
 そう言って伸也の手を取る。堅い皮膚。ギターを弾くための指。
「わたくしを嫌いになったら、おっしゃって下さい。それまでは、あなたを好きでいさせて下さい」
 そう言って、小枝はまた笑う。泣きながら笑う。
(俺は狂っている)
 伸也は小枝を抱きしめながら思う。その体は冷たかった。決まっている。風に吹かれながら、ずっと俺のそばにいて、俺とギターとを見ていたのだから。
(なにかが狂っている)
 狂っている。こんなに人を好きになり、その相手を今こうやって抱きしめながら、自分の一番大事なものはこいつじゃなくて、汚れ色あせたこの、俺を虜にして放さないギターだと――そう確信してしまえる俺は、やっぱりどこか狂っている。狂っている。
 ――しばらくそうしていると、チャイムが鳴った。授業が終わったのだ。
「――いつか、わたくしのために、あなたにギターを弾かせてみせます」
 ぽつりと、小枝が言った。
「……なんだ、それ」
「おかしいですか?」
「いや……」
 そうか。
 そんな考え方もあるのか。
 小枝の髪のにおいをかぎながら、伸也は声を出して笑った。

    5

「――どうですか、相葉さん?」
 椿小枝は、こめかみの辺りを押さえている相葉沙美に訊ねた。
「頭痛いわ……」
 沙美の頭を痛くしている原因を、椿小枝は眺めやる。
「正人、またリズムが狂ってるわよ!」
「猪俣さんのギターが速すぎるんだよ。僕は初心者なんだから、僕に合わせてよ」
「そんなことしてたら全部がぐちゃぐちゃになるじゃないの!」
「まあまあ、二人とも。落ち着いて、もう一度、最初からいこう」
「会長のベースだって、一カ所間違えてましたよ。ベースはリズムが命なんだから、しっかりして下さいよ」
「ム……リズムが命なのはキミのドラムも同じだろう」
 今、彼らは第四音楽室で、バンド練習に励んでいた。学園祭まであと十日である。時間はもうあまり残されていない。
「あと十日でこれとはね……信じられない現実だわ」
 沙美のイライラした声が、椿小枝には心地よく聞こえる。沙美が苛立っているからではない。沙美の声はとても透き通っていて、きれいだと思う。そしていつも感情が素直に声に表れる。沙美のそんな飾らない声が、椿小枝はとても好きだった。
「やっぱり」
「……あなた、よく落ち着いていられるわね」
「ここまできたら、がんばるだけですから」
 小枝はにっこりと微笑みそう言う。
 ――いつだったか。友達の一人に、あなたはいつも笑っていると言われたことがある。

(なに言っても、笑っているのね)
(そんなの真剣かどうか、わからない)
(馬鹿にしてる)

 そう言われて、小枝はまた笑った。
 自分では分からない。
(わたくし、笑っているかしら?)
 それでも悲しいときはあるのに。
 けど、一人だけ、言ってくれた人がいる。

「そんな顔で泣くな。泣くんなら、顔ゆがめて、大声出して泣け」

 涙も出さないで、ただ、そこにいただけなのに、それなのにあの人は、自分のことを見つけてくれた。
 それが、すごく嬉しかった。

「――それにしても、あたしをヴォーカル専門にするなんて、次郎も思い切った決断するわよねー」
「思い切った決断、ですか? けど、軽音部でもヴォーカルだったんでしょう?」
「確かに、あたしは歌がうまいわ。高峯学園の歌姫とはあたしのことよ。けどね――」
 沙美は生徒会バンドの現状を指さした。
「バックがしっかりしてなきゃあ、歌は歌えないのよッ。今からでも間に合うわ、あたしにも楽器弾かせなさいッ。はっきり言ってこいつらより、どの楽器でもぜんぜん上手く扱えるわよ、あたし」
「大丈夫だよ、沙美さん。そんなに心配することはない」
 いつの間にか二人に近づいていた次郎は、そう受け合った。
「なぜなら、我々は生徒会だ」
 胸をはってそう言い切る生徒会長を、沙美は疑わしげに眺める。
「……バカじゃない? あんた」
「生徒会に不可能はない、ということだよ。後十日で、必ずバンドとして成立させて見せよう」
「あ、そ……まあ、いいわ。ぜいぜい期待してるから」
「後、沙美さんをなぜヴォーカル専門にしたのかという質問だが、答えは簡単だ。キミだけが、真崎君のあの歌唱力と渡り合えるからだよ。バンドの華は、どこまでいってもやはりヴォーカルだ。と、なると、我々生徒会バンドが軽音部に勝つためには、軽音部よりも歌唱力において勝っている人間をヴォーカルに据えることが、ある意味必然といえるだろう」
「……まあ、そういう考え方もあるかもしれないわね」
「僕の耳が確かならば、今、沙美さんの歌唱力と真崎君の歌唱力は、ほぼ互角といっていいだろうと思う。しかしだ。真崎君には、ある重大な欠点があるのだ。それが――」
 次郎は持っているベースをつきだした。
「これだ」
「……なるほどね」
「そうだ。つまり真崎君は、ベースを弾きながら歌を歌うという、まったく違う二つの行為を同時に行わなければならないのだ。それに対して、沙美さんがヴォーカルに専念したとすれば、それは、かならず決定的な差となって現れるだろう」
 次郎は得意そうに笑った。
「これでもう、うちの勝利は決まったようなものだ」
「だからって、バックがあんまりひどかったら元も子もない……て、聞いてないわね、もう」
 再び一心不乱にベースの練習を始める次郎に、沙美は溜息をつく。
「……まあね。あんたたちが練習熱心なのは、認めてやってもいいのよ、あたしは」
「みんな、楽しいんですわ」
 椿小枝は言う。
 そう、楽しかった。こうして、みんなで一つのことをやるのは。
「二学期に発足したばかりの生徒会ですもの。こうして一つのことをみんなでやると、どんどんみんなの心が重なっていくような気がして、それがすごく楽しいんです」
 次郎も、きっとそれを感じていることだろうと、小枝は思う。
 兄にひたすらライバル心を燃やした結果、ここまでやってきた彼は、兄が好きなことを自分もやってみて、いま、どういう思いを抱いているだろうか。
 ――それが、次郎のコンプレックスになんらかの変化をもたらしはしないかと、椿小枝はひそかに期待しているのであった。
「……けど、今さらですけど、本当によろしいんですか?」
「なにが?」
「あの、もしも軽音部がわたくしたちに票の上で負けてしまったら、軽音部は消滅ということになりますでしょう? それで、本当によろしいんですか?」
「なんだ、そんなこと」
 沙美は肩をすくめる。
「いいのよ。あいつら揃いもそろってぬるま湯にすぐつかりたがる奴らなんだから、たまにはこうやって刺激してやった方が。それにね、あたしは前からこう考えてるんだけど、軽音部だけがバンドの形じゃないでしょう? もし軽音部がなくなったら、また新しく作ればいいことなのよ。みんながバンドをやりたいと思っていれば、いつだってどこでだってバンドは続けていけるわ。そういうものでしょ、あたしたちが今やっているこれは」
「――強いんですのね。沙美さんて」
「ぜーんぜん、強くなんてないわよッ」
 沙美の次のセリフを待ったが、彼女に何かを続けて言おうとする様子はない。
 これ以上、触れない方がいい話題なのだと判断して、小枝はにっこりと微笑んだ。
「――じゃあ、わたくしもそろそろ練習に戻りますね」
 キーボードの前に座る。
 実は小枝は、ピアノコンクール全国大会上位入賞の実績の持ち主である。
 だから練習の必要はない、という考えは小枝にはない。
 ただ上手なだけでは駄目だから。
 みんなで音を重ねるから、バンドなのだ。

    6

 ここから見える景色が好き。
 夕方の、日が暮れる瞬間の真っ赤な光が、空気まで赤く染めるこの時間の、ここから見える景色が好き。
 赤は沙美の一番好きな色だった。だから季節の中で、今が一番好きだ。なにもかもが鮮やかな赤色になるから。たとえば、山とか、空気とか。唇とか。たとえば甘酸っぱい果物とか――
 第二音楽室の窓際で、椅子に座って、窓に手をついて――沙美は一人外を眺めている。
 グラウンドの向こうの方にある、門へと続く銀杏(いちょう)並木を眺めるのが、今の沙美の一番のお気に入りだった。黄色の葉っぱが、今の時間は赤い金色に輝いていてとてもきれいだと思う。
「いいんですか、沙美さん? 生徒会バンドの方にいなくて。学園祭まであと、五日しかないんですよ」
「――あら聖。あんたいつからいたの?」
 ずっと前からいましたよ。聖が拗ねたように言う。
 子犬のようなやつだと沙美は思う。いつも聖はまとわりついてくる。そうして、愛を分けてくれるのをじっと待っている。
「あたしだってたまには羽伸ばしたいわよ」
 喋るのは嫌いじゃない。歌うのはいつだって大好きだった。
「――まあね。あいつら、頑張ってるわ。このままいけば学園祭、けっこういけるかもね」
「へえ――」
 聖のその面白がるような視線に、沙美は顔を赤くする。
「な、なによ……」
「めずらしいですね。沙美さんがそんなに人を褒めるなんて」
「あたしだって、褒めるときは褒めるのよ」
 憮然として沙美は言う。そしてまた外を眺める。
「……ねえ、聖」
「なんですか」
「あたしってやっぱり、気が強いかしらね」
「……なにか、あったんですか?」
「べつにー」
 今日の昼休み、彬に会った。
 そしてまたケンカした。
 いつもだった。いつも彬に会うと、この口は憎まれ口ばかり叩いてしまう。
 そのくせ、思っていることは一言も口に出せない。素直になれない。
 だって、この心が。
 傷つくのを嫌がっているから。恐がっているから。
 歌をうたうときみたいに、ただ素直になれたらいいのに。
(そしたら、こんなに淋しがらなくてすむかもしれないのにね……)

 ――淋しいって漢字、彬に似てるね。
 そういえばずっと前、彬にそう言ったことがあったっけ――

「好きです、沙美さん」
 沙美は顔を窓から放した。聖が、じっとこっちを見ている。真っ赤になって、それでも目を逸らそうとはしない。
「――ずっと前から、中等部の時はじめてあなたを見たときからずっと好きでした。あなたが好きで、あなたに少しでも近づきたくてこの軽音部に入って――今は軽音部の一員になれたことを誇りに思っているけど、始まりはあなたがいたからです。僕はあなたが好きです!」
「あたしはあんたのこと別に好きじゃないし、これから好きになることもないと思うわ」
 沙美がそう言うと、聖はうつむいた。沙美はため息をついた。こいつ、また泣いている。
 沙美はすぐ泣く男は嫌いだった。
「男のくせにそうやってすぐ泣く。あんた見てるといらいらするのよ、あたしはッ」
 本当に、子犬みたいな奴。悲しいとすぐに泣いて、嬉しいと体をいっぱいに使ってはしゃぎ回る。
 子犬みたいな奴。子犬みたいに、どんなに傷ついても、心を守ることをしないやつ。
 ――あたしには出来ない。
 嫌い。あんたみたいなやつ。
「ほっといてください。僕は悲しいから泣くんです。沙美さんはフられたことがないから、こんな気持ちは分からないんでしょうけどッ」
「あるわよ。だから泣かないでくれる。こっちまで悲しくなるじゃない」
 愛の言葉など、口にしたことは一度もない。ただ歌うとき以外には。

(――しらないよ、そんなことッ!)
(いちいち人に訊かなくても、そんなこと沙美なら自分で決められるだろッ)

 けれど、きっとあたしは、あの時フられたのだ。
(なんて、中途半端なふられかた――)
 ここにいたくなかったから留学した。彬と顔を合わせたくなかった。話をするなんて絶対嫌だった。そんなことをすれば、自分はきっと泣いてしまう。
 帰ってきたのは、ただ、彬に会いたかったから。顔を見たかったから。会って、話をしたかったから。
 それができたら――
 たとえ、泣いてしまったってかまわないと思った。
「僕は、沙美さんのこと、諦めませんから」
「……ムダなのに」
「諦めませんから。まだ、僕は成長しますから。きっと強くなりますから。だから待っていてください!」
「あたしは――」

 誰かが言っていた。死にたいとは思わない。ただ、生まれてこなければ良かったと思うだけ――
 そんなのは嫌。だって、それでもあたしは生きているから。

   つらくて
   息できないくらいでも、
   なにかが切り落とされても翼が消えてしまっても
   いつだってあたしは笑ってみせよう

 そう。昔書いた歌みたいに。
 強く。
 生きていたい。

「そうね、聖」
 彬。
「あたしも、諦めないわ」
 沙美は立ち上がった。それと同時に、入り口の扉が開かれる。
 入ってきた人間の一人に向かって、沙美は真っ直ぐ歩いていく。
 もう、逃げるのはやめだ。
 そんなの、あたしらしくなかった。
 彬の隣にあの女がいるのを見て、沙美はカッとなった。
「ちょっと、どきなさいよ!」
 ノアエティルアを乱暴に押しのけて、沙美は彬に向き直る。
「沙美、なにを……!」
「彬ッ」
 怒りにまかせて、沙美は彬の声を遮る。凛とした声で。
 みんなの視線を感じずにはいられない。雄輔も、伸也も、聖も、結城ノアも、彬も、みんなこっちを見ている。顔が夕日よりも真っ赤だって自分で分かる。けれど、赤はいつだってあたしの一番好きな色だから。
 それは情熱の色。
「あたしはあんたのことが、ずっとずっと前から好きよ。いつから好きだったか忘れてしまうぐらいずっと前から好き。あんたの顔も、声も、体も、すぐに腕を組む癖も、優柔不断なところも、あんまり人の目を見ないところも触れられたがらないところも淋しがりやなところも、本当は優しいところもみんな好き。気が変になるほど、あたしはあなたのことが大好き! 大好きッ!」

    7

『どうした、ノアエティルア。異常なほど、取り乱しているぞ』
『――ユルガシィ』
 ノアエティルアは思念を返す。ユルガシィが思念を送ってくることなど、このところずっとなかったことだった。
『あの少女が原因なのか、ノアエティルア』
『関係ないでしょ、あなたには』
 ノアエティルアは動揺していた。突然のユルガシィの思念にではない。いきなり沙美に突き飛ばされたことにでもなかった。

(あなたのことが大好き!)

 いま、はっきりとそう言った沙美は、じっと彬のことを見つめている。誰も動かない。声も出さない。みんな、自分が何かのきっかけになることを恐れるかのように息をつめている。
(――どうしよう)
 ノアエティルアは彬を見る。沙美と同じく、彬の顔は赤い。その目が見開かれている。そして沙美を見ている。
(――イヤだ)
 ノアエティルアはそう思う。理由さえも分からないまま。
 胸が締め付けられる。気持ち悪い。
(私、吐きそう……)
 ブレザーのリボンをギュッと握りしめる。それ以外にはなにも出来ず、ただ、彬の言葉を待った。

    8

 残照に淡く照らされるその髪は銀色だった。
 空に浮かんだまま、腕を組み、目を閉じている。その整いすぎた顔に表情はない。
「ノアエティルア……」
 ユルガシィは呟く。
 空には強い風が吹いている。しかし、その風が彼に影響を与えることはなかった。それとはまったく別の、異質な風が、彼を静かに取り囲んでいた。
「今のキミは、死神ではない」
 ざわめきのない心に宿る、かすかな嫌悪の念。
「まるで、人間のようだ。キミは死神というより、ずっと人間に近い存在になったよ、ノアエティルア」
 今のまま、彬が魂を取り戻したら。
 ノアエティルアは、本当の意味で死神でなくなるかもしれない。
「まさか本気で人間になろうとしているのか? 無力で愚かな、ただの人に?」
 ――そんなことは、許さない。
「ノアエティルア。キミは、死神なのだ」
 彼以外に誰もいない場所で、ユルガシィは言う。平坦な声で。
「人間のフリをしても、つらいだけだよ」

 ゴウッ。

 強い風が突然ユルガシィに襲いかかった。そしてその時には、彼の姿は消え去ってしまっていた。
「僕が思い出させてあげよう。君が何者であるのかを」
 声が、誰もいない空から発せられる。
 消える瞬間開かれた、虚無のように黒い眼差しのその残像と共に。

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Posted by 千歳 at 2002年12月18日 16:06 EDIT
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