俺はアイロンのアイちゃん。ご主人のために、衣服のシワを伸ばすのが仕事だ。
俺はアイロンのアイちゃん。
衣服のシワを取る、あのアイロンだ。
ご主人に買われてからというもの、毎日のように相棒のダイちゃん(アイロン台)と共に衣服のシワを伸ばしている。
ちなみにアイちゃんというのは、俺のご主人がつけた名前だ。ご主人の性別は女で、なんにでも名前をつけるのが好きなのだ。安易な名前だが、俺は結構気に入っている。
衣服はご主人のものもまれにあるが、ほとんどがご主人の彼氏のYシャツだ。
ご主人は良くできた彼女で、彼氏と二人で暮らし始めてからというもの、毎日のように、彼氏のYシャツにアイロンをかけている。
ご主人自身はアイロンの必要な服はほとんど着ないから、むしろ俺とダイちゃんは、彼氏のYシャツにアイロンをかけるために購入されたようなものだった。
最初の頃、ご主人のアイロンの腕はお世辞にもうまいとは言えず、俺の扱いを誤ってよく火傷を作っていた。最初は真っ白だったダイちゃんも、どんどん焦げ跡がついて汚くなっていった。Yシャツも何枚かだめにした。ご主人とダイちゃんとYシャツが心配で、俺は毎日気が気でなかったものだ。
そんなご主人の腕も、近頃ではすっかり向上した。初めの頃は一枚のシャツに三十分くらいかかっていたものだが、今ではてきぱきと、五分とかからずこなしてしまえるようになった。
俺もすっかり安心してシワを伸ばせるようになり、アイロンとしての幸せを毎日噛み締めていた。
そんなある日――突然俺は、使われなくなった。
彼氏が帰ってこなくなったのだ。
彼氏が帰ってこなければ、ご主人がYシャツにアイロンをかける必要もない。出番のない俺とダイちゃんは、ずっと部屋の隅に片付けられっぱなしだった。
俺たちに薄く埃が溜まり出した頃、彼氏が久しぶりにこの部屋にやってきた。
二人は冷たい会話を幾つか交わし、彼氏は荷物をまとめて出て行った。そして、それっきり二度と帰ってこなかった。
それからというもの、以前の元気だったご主人はどこかに消えてしまった。いつも眉間にシワをよせ、ことあるごとに良く泣くようになった。けれど俺たちにはどうしようもない。元気出せよ。ご主人にそんな励ましの声をいくらかけたところで、俺たち道具の声は、ご主人には聞き取れない。
いつしか俺は絶望していた。そうだ、俺は自惚れていたんだ。俺に取れないシワはないとまで思っていた。だが、大切なご主人の、泣き顔のシワをとることもできないではないか。そうさ。俺はなんて役に立たないアイロンなんだろう!
そしてそう――わかっている。もう俺とダイちゃんが使われることはないだろう。彼氏がいなくなった今、Yシャツのシワを伸ばす必要はない。ご主人が俺を手に取ることも、俺を「アイちゃん」と呼ぶこともないのだ。
しかし仕方がない。俺たち道具というのは、そんなものだ。古くなったり、もう必要でなくなれば、使われなくなり、やがて捨てられる。
きっと俺たちはこのまま、何かのきっかけで捨てられてしまうのだろう。すでに埃は俺たちの上に幾層にも重なり、存在自体を覆いつくしてしまいそうだった。
そして月日が経った。
いつの間にかご主人は泣くのをやめていた。すっかり元のように元気になった。彼氏のことを、自分自身の力で吹っ切って、以前の明るかったご主人に戻ったのだ。
そんなご主人を見て、俺たちはまた幸せな気分になった。
わかっている。ご主人がたとえ元気になっても、もはや俺たちは無用な道具でしかない。もともとご主人は、アイロンが必要な服を着ないのだから。
けれど、そんなことはもういい。ご主人が元気になったのなら、それでいいと思った。
そうだ。道具はいつだって主人に恋をする。俺もダイちゃんも、ご主人の事が大好きだった。大好きなご主人に使われて、俺たちは幸せだった。もう思い残すことはない。最後にご主人の元気な姿が見られて良かった。
そして、ついにその時がやってきた。ご主人の引越しだ。
引越しのとき、たいていの人間はここぞとばかりに、なんとなく捨てずにいた使わなくなったものを処分する。使われることがなくなって久しい俺とダイちゃんは、確実に捨てられるだろう。
ご主人に捨てられる瞬間に言うことは、俺たちの間ですでに決めてあった。
引越しの作業は順調に進み、そしてついにご主人が、埃もつれの俺たちを久しぶりに引っ張り出した時、俺たちは、人間には決して聞こえない声で、ご主人に気持ちを伝えた。
「ありがとうよ。俺たちはあんたに買われて幸せだった。あんたのおかげで、アイロンとアイロン台として十分働けた。沢山シワを伸ばせた。あんたに使ってもらえて、とても幸福な人生だった。本当に、ありがとうよ」
俺たちが別れの言葉を伝えた後、驚いたことに、ご主人は埃だらけの俺たちを抱きしめたんだ。
「アイちゃん、ダイちゃん、長い間放っておいてごめんね。一緒にお引越ししようね」
――それは、奇跡のようだった。
ご主人は、俺たちの埃をきれいに落としてくれ、そして引越し先まで連れて行ってくれた。ゴミとして捨てることなく、道具として俺たちを選んでくれたのだ。
それからは、だいたい週に一回くらいは、俺とダイちゃんは使われるようになった。
ご主人のお気に入りである水色のブラウスにアイロンがけする時間。それが今の俺たちの一番幸せな時間だ。
俺はアイロンのアイちゃん。衣服のシワをとるのが仕事だ。相棒はアイロン台のダイちゃん。これまで二人で組んで、数々の衣服のシワを伸ばしてきた。
これから先も、俺たちはご主人のためにシワを伸ばし続ける。ずっと――願わくば、完全に壊れてしまうその時がくるまで。

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