われは天使。 背中に白き翼、頭上に輝く光輪を持つ神の使いである。 しかし故(ゆえ)あって、いまは一羽のうさぎでしかない。 神の不興を買い、姿をうさぎに変えられ、下界に墜(お)とされてしまったのだ。 下界の者たちの悲しみ、苦しみを理解せず、真摯(しんし)な祈りを軽視していると、神はわれに仰(おお)せられた。 「お許しください!」 天に向かって必死で訴えるが、耳を貸してはくださらない。 ...
われは天使。
背中に白き翼、頭上に輝く光輪を持つ神の使いである。
しかし故(ゆえ)あって、いまは一羽のうさぎでしかない。
神の不興を買い、姿をうさぎに変えられ、下界に墜(お)とされてしまったのだ。
下界の者たちの悲しみ、苦しみを理解せず、真摯(しんし)な祈りを軽視していると、神はわれに仰(おお)せられた。
「お許しください!」
天に向かって必死で訴えるが、耳を貸してはくださらない。
「その姿で生き、弱き者の気持ちを知るがよい」
神はただひと言そう宣(のたま)い、それ以上はもう、なにも応えてはくださらない。
経験上、こうなったときの神はもう駄目だ。なに言っても聞いちゃくれない。
それでも、叫ばずにはいられなかった。
「神よ!」
翼を羽ばたかせているつもりが、実際にパタパタ動いているのは翼でなく耳だと気づき、愕然(がくぜん)とする。
なんということだ。
あの気高き姿は見る影もなく、いまやただの小動物である。
パタパタ動かしていた耳をだらりと下げ、われはうなだれた。
……こうなれば神のご意志に従い、弱きものとして生きていくしかあるまい。
それにしてもここはどこだ。
改めてあたりを見まわす。
アスファルトで舗装された道の真ん中に、われは立っていた。
ひとまず、今すぐどこかに身を隠さねば。
弱肉強食の世界において、いまのわれは被食者でしかない。
このまま突っ立っていても捕食されるだけだ。
そう思い、いちばん近くの草むらに移動しようとしていたそのときだった。
「え、ノラうさぎ?」
慌てて声がしたほうを振り向くと、ひとりの人間が、われを見おろしていた。
女である。年の頃は二十歳前後といったところであろう。
被食者の本能により、一目散に逃げようとしたこのからだを、われは意志の力でその場にとどめた。
ちょうどよいではないか。
見たところ、都会の娘のようだ。
よもや、われを捕まえ捌(さば)き煮炊きして、夕餉(ゆうげ)の一品にしようなどとは考えまい。
それに、この天使印のかわいさをもってすれば、このような娘を虜(とりこ)にすることなど容易。
われは耳をフルフル震わせながら、つぶらな瞳で娘を見あげ、小首を傾(かし)げてみせた。
「かわいい!」
娘は歓呼(かんこ)の声をあげてしゃがみ込んだ。そして怖がらせないようにという配慮(はいりょ)だろう、しゃがんだまま、ゆっくり近づいてくる。
手が伸びる。このモフモフとしたからだを、そっと抱き寄せた。
「どうしたの? 迷子になったの? ――かわいそうに」
フワリ。
われの頭を撫(な)でる手の優しさに、うさぎが本来持つ被食者としての本能も、どうやら安心したらしい。からだの震えがだんだん納まっていく。
「――ね、うちにくる?」
よしきたミッションコンプリート!
目を細め、フンフンと鼻を鳴らしながら大いに満足する。
われの愛らしさにかかればこんなものだ。
……しかし頭を撫(な)でられるというのは、思いのほか気持ちのよいものなのだな。
かくてこの娘は、世界でただひとり、天使をペットに持つ人間となったのである。
*
ペットとしての暮らしは、まあ悪くはなかった。
娘は動物をそれなりに飼い慣れているらしく、食事もうさぎの食べるものをきちんと用意してきたし、水も欠かさず、トイレもこまめに掃除した。
ケージの中に閉じ込められていることが不満ではあったが、かよわいうさぎを飼う側としては当然の判断であろうから仕方がない。
「ただいまー」
家に帰ってきては、ケージからわれを取り出して頭を撫(な)でたり、ほほをすり寄せたりしてくるこの時間も、嫌いではなかった。
ある日、娘がわれをケージから出しっぱなしのままにしていたことがあった。
気ままに部屋のなかを散策していたわれだったが、やがてそれにも飽いて、娘のもとにピョンピョンと跳ねる。
クフフ。このように跳ねる姿、さぞかし愛くるしいだろう、娘よ。
さあ、抱きかかえるがよい。そしてわれの頭を撫(な)でよ。
――む。なんだ、寝てるではないか。
つまらん。
不満に思いながら、ふと、娘の無防備な寝顔をまじまじと眺めた。
人間。――神が、自らをかたどって作られた存在。
下界では生態系の頂点に君臨しているが、天界から見おろす彼らはやはり儚(はかな)く、かよわき存在でしかない。
そう、彼らは弱い。ひとにとっての、うさぎのように。
「その姿で生き、弱き者の気持ちを知るがよい」
あの日、神から賜(たまわ)ったお言葉を思いだす。
――神よ。
あなたがわれに教えんとされたのは、この心細さでしょうか。
確かにこの娘がいなければ、このような脆弱な身など、とうの昔に獣の餌食にでもなっていたでしょう。
――ふと、娘の閉じたまぶたから、涙がこぼれ落ちていることに気づいた。
なにか嫌なことでもあったのだろうか。または、悲しい夢でも見ているのか?
……ふん、仕方のないやつだ。
「泣くな、娘よ」
われは直接、娘の魂にささやきかけた。
うさぎの身にあって、ほとんどなんの力も持たないわれであるが、娘が寝ている状態であればそれくらいのことはできた。
「この下界での苦しみなど、どうということもない。輪廻(りんね)を繰り返す魂にとっては所詮(しょせん)、生まれてはすぐ消えゆく泡沫(うたかた)のようなものでしかないのだから」
「うーん」
娘が眉を寄せた。
ううむ。この娘には、ちと難しい話だったか……。
さてどうしてくれようと悩んでいたところ、今度はむずがゆそうな顔をした。近づきすぎて、われの愛らしいひげが鼻をくすぐったらしい。
慌てて下がると、寝ぼけた娘が手をさしのべて、われのからだを強く抱きしめる。
むむ。こら、そんなにしては苦しいではないか。
逃れようと四肢をバタバタさせるが、娘の力のほうが強く抜け出せない。
――と、急にその腕の力がほどけ、優しくなった。抜け出すのも容易なほどに。
娘が、寝言でわれの名を呼んだ。
そして、満足そうな吐息(といき)。
……本当に仕方のないやつだ。
あたたかく、やわらかな腕と胸の間で、われもそのまま眠りについた。
*
そのような穏やかな日々が過ぎていくなかで、われの存在は、静かに娘の生活の一部になっていった。
そうだな、認めてもいいだろう。
それは天使として――神の使いとしてあったわれが、これまで感じたことのない種類の、喜びの日々であったと。
しかし、その日は訪れた。
かりそめのこの肉体が、このところ徐々に力をなくしていっていることには気づいていた。
だが、まだ時間はあるだろうと、きょうのきょうまで高(たか)を括(くく)ってしまっていた。
うさぎに許された時間は、悠久(ゆうきゅう)の時を神の御許(みもと)で過ごしてきたわれにとり、あまりにも短すぎたのである。
からだを動かすこともかなわず、浅い呼吸を弱々しく繰り返すばかりのわれを、優しい手がなでている。
うさぎのつぶらな瞳は、本来の用をなさずなにも映せず、娘の顔を見ることもできない。
しかし実際に見ずとも、どのような表情(かお)をしているかはわかっていた。
天使にとって一瞬でも、うさぎにとっては、生涯に渡る時間だった。
その間、ずっと一緒だったのだ。
わかっている。娘の気持ちも。その手が震えていることにも。
われは悔やむ。
この心優しい娘を、少しでも悲しませないようにする方法は、いくらでもあったはずだ。
だのにいまや打つ手もなく、これほどまでに悲しい気持ちにさせてしまっている。
「ごめんね、なにもしてあげられなくて」
娘が、泣いているとわかる声で話しかけてくる。
そんなことはない、娘。
幸せだった。
これ以上は望めないほどに、われは幸福なうさぎだったぞ。
そう言ってやりたいのに、この身では伝えることもできない。
「その姿で生き、弱き者の気持ちを知るがよい」
まさに命の灯火(ともしび)が吹き消されんとするその時、ようやくわれは神のご意志を理解した。
神はわれに、弱き者の心細さを教えんとされていたのではなかったのだ。
愛する者に、
言葉をかけ安心させてやることも、
そっと抱きしめてやることも、
優しく頭を撫(な)でてやることも、
なにひとつ、このからだではできない。
そうだ。そのような無力な者の気持ちを、神は知れと。
このうさぎの気持ちを知れと、そう、神はお望みだったのだ。
われは祈った。ほかに、なにもできないが故(ゆえ)に。
――どうかこの娘が、幸せでありますように。
うさぎの命が絶えると同時に、われは神の御許(みもと)にまかりこしていた。
頭上には輝かしき光輪。背中には気高き翼。
ついに許しを得て、元のからだに戻ったのである。
神の声なき問いかけに、われは答えた。
「ひとつだけ」
神がうなずいてくださるのとほぼ同時に目を閉じる。つぎの瞬間には、われは再び娘のそばにいた。
天使は実体を必要としない。この姿は、娘には見えない。
ちいさな亡骸(なきがら)をいたわるように抱きしめ、われの名を繰り返し呼びながら、ただ、われのためだけに祈る娘を、背中の翼を広げ、そっとつつみこむ。
「泣くな、娘よ」
人間の聴覚には届かない声で、魂に向けささやく。
撫(な)でるように、頭に手を置いた。
「われは、いつでもそなたと共にいる」
だから娘よ。もう泣くな。
そなたはこれからも、愛され続けるだろう。
ずっと、幸せであるだろう。
われがそなたに愛され、とても、幸せであったように。

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