リリを更に傷つけることが怖くて、たとえ冗談にまぎらわせてでも口にできない――そんな、特別なメッセージ。
「ユウくん」
コンビニで、晩御飯を選ぶのに15分かかった。
結局、なんかカラそうなものを塗りたくったパンを一つ買って、コンビニを出た。外では先に買い物を済ませたリリが待ってくれていた。
「ユウくんは、なににした?」
「うん、これ」
「それだけでいいの? それじゃお腹すかない?」
「今ダイエット中だから、これで十分だよ」
「そっか……」
最近いい感じで痩せてきていることを、僕はリリの隣に座り込んで延々と話した。リリはずっと聞いてくれている。柔らかな微笑を浮かべた、大きな瞳。僕はリリのその目が一番好きだった。パッチリとした二重まぶたで、まつげが長くて、とても優しいまなざしをするんだ。
その目を見つめながら一生懸命話を続けるうちに、また気がついた。そうだ、別にもう、頑張って話さなくてもいいんだった。
僕が話しやめると、リリは夜空を見上げた。一緒になって夜空を見上げる。空には当たり前のように星が瞬いている。よかったと思う。せっかくリリが空を見上げたのに、そこに星がなかったらかわいそうだ。
リリは、最近あまり喋らない。
彼女が彼氏と別れてから、三ヶ月が経っていた。
彼氏と別れる前、リリはとてもよく笑う女の子だった。
付き合う前だってそうだ。僕はリリとは、実はその元彼よりも付き合いが長い。だから付き合う前から恋愛相談も受けてたし、付き合った後も、いろんな相談やらのろけ話などをさんざん聞かされていた。リリはたいていとても幸せそうで、いつもよく笑ってて、僕はその笑顔が大好きだった。
そう、僕はリリのことが好きだった。
ずっと前からだ。リリがあいつ――洋輔と出会うよりずっとずっと前から、僕は彼女だけを見ていた。
だからリリが洋輔のことを好きなんだと知った時はショックだったな。
けれど、僕は彼女の不幸は望まない。リリが洋輔と恋人同士になって、そして普段見せたことがなかったような、とても幸せそうな笑顔を見せるようになってからは、僕は心からふたりを祝福することにした。
以来この気持ちを、ずっと閉じ込めていたんだ。時には暴れることもあったけどおさえつけて。おさえつけるのは、そんなに難しいことではなかった。リリの幸せが続くことを最優先に考えたとき、僕のとる行動はひとつだったから。
僕はよい友人としてリリと、洋輔と接した。
ふたりが付き合っている間は、以前のようにリリと僕がふたりきりで会う機会はずいぶん減ったし、たまに会えても、僕にとってそれは100%楽しい時間でなくなっていた。
リリは本当いつもいつも洋輔の話ばっかりしてくるのだ。僕はリリの事が好きだから、彼女のことは何でも知りたいと思っていたけど、あれだけえんえんと洋輔中心の話をされるのは、さすがにつらい。特にエッチの話なんかされると最悪だった。
けれどそんな気持ちはひた隠しにして、リリと会うたびどんな話でも熱心に聞いた。
楽しそうな話の時は一緒になって楽しい顔をして、悲しいことがあった時には一生懸命慰めた。多くの場合、僕は笑顔を顔に貼り付けて彼女の話を聞いていた。彼女といるとき笑うことは難しくない。幸せそうな顔はいつも目の前にあって、僕はただ、彼女の瞳をまねて目を細めてみせたらよかった。
いつも全力でリリに笑ってみせた。自分の気持ちを伝えることなど、ただの一度もないまま。
そうやって僕は、とても近くでふたりのことを見ていくことになった。彼らが出会い、恋人同士になり、そして別れるまで。
洋輔はいいやつだった。あの頃僕らはバンドを組んでいた。僕がギターで、洋輔がドラム、あとベースのスリーピースバンドだ。音楽は、性格がまるで違う僕らを友人同士にしてくれた。
今も――バンドを解散してからは洋輔とはほとんど会うことはなくなってしまったけれど、それでも僕らは友達だと思っている。
あいつがリリの笑顔を奪ったことだけは許せないけど。
ふたりが別れてからは、前よりずっと、リリとは頻繁に会えるようになった。
そのこと自体は、僕にとって嬉しい状況だった。
正直言って、僕はすごく嬉しかったんだ。頻繁に会えるようになったことも、洋輔と別れたことも。
けど、今の彼女はとても不幸そうで、元気がない。
洋輔には悪いけど、僕はこう思うことにしていた。洋輔はリリにはふさわしくなかった。あのまま付き合っていればリリは絶対不幸になる。だから今は悲しくても、そのほうが最後はリリは幸せになれるんだ。
けれど、それでも奇妙な思いが残る。彼女の今の不幸は、僕にとっては紛れもない喜びで、そのことに違和感を覚えずにはいられなかったんだ。なぜこの僕が、リリの不幸せを喜ばなくてはならないのか。それはとても許されない感情のように感じられた。リリを裏切っているような気になって、僕の心は落ち着かなかった。
不幸せなリリを少しでも幸せに近づけたくて、僕は彼女笑わせようと、よく喋るようになった。
けれど根本的かつ致命的な問題があった。
僕の話は面白くなかった。シンのようにライブのオーディエンスを笑わせることも、洋輔のようにオーディエンスを煽るトークもできない。
それでも僕は一生懸命喋った。リリと会っていないときは、週刊誌とか読んでネタを仕入れたり、うまく喋れるようになるというハウツー本を読んだりして勉強した。洋輔の少し乱暴な喋り方を真似ようとしたことさえあった。
何日かそれが続いて、でも僕は相変わらず口下手だった。リリが好きな話し方とかまるでできなかった。リリはとても悲しそうなまなざしをしてるから、僕は彼女を真似て笑えない。面白い話をして、リリを楽しい気分にさせてもあげられない。
ある日、僕がこわばった笑みを顔に貼り付けて、相変わらず面白くもないネタを大して面白くもできず少しあせりながら話していると、リリが言った。
「ユウくん、今まで頑張って話してくれてありがとうね。おかげで元気でたよ」
優しく笑ってくれたリリに僕は赤面した。そして、リリのことが好きになった。好きの上に重なる好きがあることを、この時初めて知った。
無理に喋らなくてもいいことに気づいてからは、沈黙がふたりの間に流れるようになった。それはとても心地のよい静寂で、今夜もこうしてコンビニの前にふたりして座って、ただ時を過ごしている。
どれだけの間こうしていただろう。夜空を見上げながら、ふいにリリが言った。
「きょうも、抱きしめて寝てくれる?」
僕の鼓動が急速に早まり、強さをました。この胸の鼓動を、リリはよく知っている。早すぎる鼓動が、僕の気持ちを隠し切れなくしていると思う。
リリは、自分の家に戻るのをいつも嫌がった。家の中のリリの部屋には、彼氏との思い出の品が一杯あるって、前にリリがもらしたことがあって、そういうことかと僕はそれで察していた。
今のリリの部屋は、今のリリにとってはつらすぎるのだ。彼氏との思い出が多すぎて。けれど、彼氏との思い出の品を全部捨てる気には、今のところまだなれなくて。だから、捨てられないものがたくさんあるあの部屋に戻るのが、嫌になる。
自然リリは、僕の部屋で一緒に寝ることが多くなった。一つのベッドにふたりで寝て、リリがあんまり寂しがるから、ある日から抱きしめて寝るようになった。
何もしないでね。抱きしめるときに、リリは決まってそういう。その言いつけを守り、僕は彼女をただ抱きしめて寝るだけで何もしない。リリの華奢な肩を抱きながら、僕はいつも耳をすました。時計の秒針より早い僕の鼓動に比べ、彼女のそれはずっと弱く、小さい。リリの鼓動とか寝息とかを少しでも感じるために、ただ耳をすましながら、僕は彼女の眠りを見守った。
気がつけば、リリが僕をじっと見ていた。
漏れてくるコンビニの光が強すぎる。今のリリには、もっと淡い光のほうが合っている。たとえば今夜は出ていない月の光とか、そういうものが。僕は目を細めた。
「ユウくん?」
その目が不安そうな陰をたたえていることに気がついて慌てる。
そうだ。リリは僕に訊いていたんだった。『きょうも、抱きしめて寝てくれる?』どうして僕の答えを、リリはそんなに不安そうな目で待つのだろう
リリが不安に感じることなど、なにもありはしないのに。僕はできるだけ優しい声を出した。
「うん、一緒に寝よう」
リリがほっとしたような顔をした。
「ありがと」
それだけ行って、また夜空を見上げる。
リリはずるい女の子だった。甘え上手で、危なっかしくて、放っておけなかった。多分僕の気持ちを知っていた。リリは僕の気持ちを利用していた。けれどそんなところまで、僕にはたまらなく愛しおしく感じられてしまう。
そして僕は、利用されることさえ嬉しいと思っている。利用するということは、必要だということだった。リリにこんなに必要にされたことはいままでなかったから。
だから僕は今、幸せだった。
「……じゃあ、行こうか」
僕がそういうと、彼女は僕が幾千回も目にしてきた、あのやわらかい微笑を浮かべた。その笑みには、けれど今は拭いきれない悲しみが宿っている。
自転車に乗って、後ろに彼女を乗せて、月のない星空の夜を進んでゆく。
そう、リリの傷がすっかり癒えた頃――リリが強さを取り戻した頃、僕はリリに告白しよう。
好きだ。それはそんな、短い言葉。
かつてはリリがいなくなってしまうことが怖くて、冗談ぽくしか言えなかったセリフ。今はリリを更に傷つけることが怖くて、たとえ冗談にまぎらわせてでも口にできない――そんな、特別なメッセージ。
だいじょうぶだよ、リリ。
自転車をこぐ僕の背中で震えながら、ギュッとしがみついてくるリリに、僕は心の中でそっと語りかける。
キミの心は、今はこの夜のように暗いけれど。
けれど、夜はいつかは明ける。かならず朝はやってくる。
キミの心にも、いつかきっと、朝日が射し込む時がくるから。
今までそうしてきたように、きょうも夜明けまで、僕はずっと一緒にいるから。
だから泣かないで、リリ。リリ――
そして夜が更けていく。暗い道の奥に、僕とリリの別れの結末を垣間見たような気がして、僕は震えた。リリは悲しみの傷が癒えても、僕と一緒にいてくれるだろうか。よりどころなど何一つない、不確かな関係。この狂おしく優しい夜は繰り返し、どこまで続いてゆくのだろう。
僕とリリの夜――
開け放しの窓から入ってきた風が薄いカーテンを揺らめかして、そうして漏れてきた月の光が、ベッドに横たわるリリの無防備な寝顔を照らす。たとえばそんな瞬間を、僕はきっと忘れない。
リリ。好きだよリリ。いつかそう言えることを、僕はあの頃いつも何かに願っていた。

コメントしてください

Trackback Information

Contents Menu
