リリを更に傷つけることが怖くて、たとえ冗談にまぎらわせてでも口にできない――そんな、特別なメッセージ。
「ユウ君」
コンビニで、晩御飯を選ぶのに十五分かかった。
結局、なんか辛そうなものを塗りたくったパンを一つ買って、コンビニを出た。外では先に買い物を済ませたリリが待ってくれていた。
「ユウ君はなににした?」
「うん、これ」
「それだけでいいの? それじゃお腹すかない?」
「今ダイエット中だから、これで十分だよ」
「そっか……」
最近いい感じで痩せてきていることを、僕はリリの隣に座り込んで、延々と話した。リリはずっと聞いてくれている。柔らかな微笑を浮かべた、大きな瞳。僕はリリのその目が一番好きだった。パッチリとした二重まぶたで、まつげが長くて、とても優しいまなざしをするんだ。
その目を見つめながら一生懸命話を続けるうちに、僕はまた気がついた。そうだ、別にもう、頑張って話さなくてもいいんだった。
僕が話しやめると、リリは夜空を見上げた。僕も一緒になって夜空を見上げる。空には当たり前のように星が瞬いている。良かったと僕は思う。せっかくリリが空を見上げたのに、そこに星がなかったら可哀相だ。
リリは、最近あまり喋らない。
理由はとても明らかなことで、彼女はこの前、付き合っていた彼氏と別れたのだった。
彼氏と別れる前、リリはとてもよく喋った。大体八割くらいは彼氏の話だった。僕はリリの事が好きだったから、彼女のことは何でも知りたいと思っていたけど、彼氏の話をされるのはあんまり好きじゃない。特にHの話なんかされると最悪だった。
けど、彼氏の話が好きじゃないって事は、リリには絶対秘密にしなければならないと思っていた。リリの元彼と僕は友達だった。ついこの間まで、同じバンドのバンド仲間でもあった。そんな状況だったから、僕がリリのことを好きだってばれたら、たぶんリリは僕とは距離を置いてしまっただろう。
だから僕はいつも笑ってリリの話を聞いていた。彼女といるとき笑うことは難しくない。幸せそうな顔はいつも僕の目の前にあって、僕はただ、彼女の瞳を真似て目を細めてみせたら良かった。そしてそれは僕にしたら不幸なこととかでは別になくて、そんなにしょっちゅう会えるわけではないリリと会って、そうやって話が聞ける時間っていうのは、僕にとってとても大事な、なにより幸せな時間だった。
リリが彼氏と別れてからは、前よりずっと頻繁に会えるようになった。そのこと自体は、僕にとって嬉しい状況だった。
正直言って、僕はすごく嬉しかったんだ。頻繁に会えるようになったことも、彼氏と別れたことも。
けど、今の彼女はとても不幸そうで、元気がない。
僕はこう思うことにしていた。彼氏は、リリにはふさわしくなかった。あのまま付き合っていればリリは絶対不幸になる。だから今は悲しくても、そのほうが最後はリリは幸せになれるんだ。
けれど、そう思うことにしても、それでも僕には奇妙な思いが残る。彼女の今の不幸は、僕にとっては紛れもない喜びで、そのことに違和感を感じずにはいられなかったんだ。なぜこの僕が、リリの不幸せを喜ばなくてはならないのか。それはとても許されないことのように感じられた。リリを裏切っているような気になって、僕の心は落ち着かなかった。
不幸せなリリを少しでも幸せに近づけたくて、僕は良く喋るようになった。けれど結局僕は口下手で、バンド仲間のシンやオキみたいにはうまく喋れない。それでも僕は一生懸命喋った。リリと会っていないときは、週刊誌とか読んでネタを仕入れたり、うまく喋れるようになるというハウツー本を読んだりして勉強した。元彼の喋り方を真似ようとしたことさえあった。
何日かそれが続いて、でも僕は相変わらず口下手だった。リリが好きな話し方とかまるでできなかった。リリはとても悲しそうな眼差しをしてるから、僕は彼女を真似て笑えない。面白い話をして、リリを楽しい気分にさせてもあげられない。
ある日、僕がこわばった笑みを顔に貼り付けて、相変わらず面白くもないネタを大して面白くもできず少しあせりながら話していると、リリが言った。
「ユウくん、今まで頑張って話してくれてありがとうね。おかげで元気でたよ」
そう言ってリリは優しく笑ってくれた。僕は真っ赤になりながら、リリのことが好きになった。好きの上に重なる好きがあることを、僕はこの時初めて知った。
そしてもう喋らなくてもいいんだと気がついて、それからは、沈黙が二人の間に流れるようになった。それはとても心地の良い静寂で、今夜もこうしてコンビニの前に二人して座って、ただ時を過ごしている。
どれだけの間こうしていただろう。ふいにリリが言った。
「今日も、抱きしめて寝てくれる?」
僕の鼓動が急速に早まり、強さをました。僕のこの胸の鼓動を、リリは良く知っている。早すぎる鼓動が、僕のリリに対する気持ちを隠し切れなくしていると思う。
リリは、自分の家に戻るのをいつも嫌がった。家の中のリリの部屋には、彼氏との思い出の品が一杯あるって、前にリリがもらしたことがあって、そういうことかと僕はそれで察していた。
今のリリの部屋は、今のリリにとっては辛すぎるのだ。彼氏との思い出が多すぎて。けれど、彼氏との思い出の品を全部捨てる気には、今のところまだなれなくて。だから、捨てられないものがたくさんあるあの部屋に戻るのが、嫌になる。
だからリリは、僕の部屋で一緒に寝ることが多くなった。一つのベッドに二人で寝て、リリがあんまり寂しがるから、ある日から抱きしめて寝るようになった。
何もしないでね。抱きしめるときに、リリは決まってそういう。その言いつけを守り、僕は彼女をただ抱きしめて寝るだけで何もしない。リリの華奢な肩を抱きながら、僕はいつも耳を澄ました。時計の秒針より早い僕の鼓動に比べ、彼女のそれはずっと弱く、小さい。リリの鼓動とか、寝息とか、そんなものを少しでも強く感じていたかった。
「……うん。なにもしないよ」
僕は自分の意思を確認するように言った。リリがほっとしたような表情を、少し見せた。
「ありがとうね」
夜空を見上げるのをやめて、リリは僕の顔を見た。漏れてくるコンビニの光が強すぎる。今のリリには、もっと淡い光のほうが合っている。たとえば今日は出ていない月の光とか、そういうものが。僕は目を細めた。
「気にしなくていいから、さ」
リリはずるい女の子だった。甘え上手で、危なっかしくて、放っておけなかった。多分僕の気持ちを知っていた。リリは僕の気持ちを利用していた。けれど、リリのそんなところまで、僕にはたまらなく愛しおしく感じられてしまう。
そして僕は、利用されることさえ嬉しいと思っている。利用するということは、必要だということだった。リリにこれまでこれほど必要にされたことはなかったから。
だから僕は今、幸せだった。
「……じゃあ、いこうか」
僕がそういうと、彼女は僕が幾千回も目にしてきた、あのやわらかい微笑を浮かべた。その笑みには、けれど今は拭いきれない悲しみが宿っている。
自転車に乗って、後ろに彼女を乗せて、月のない星空の夜を進んでゆく。
そう、リリの傷がすっかり癒えた頃――リリが強さを取り戻した頃、僕はリリに告白しよう。
好きだ。それはそんな、短い言葉。
かつてはリリがいなくなってしまうことが怖くて、冗談ぽくしか言えなかったセリフ。今はリリを更に傷つけることが怖くて、たとえ冗談にまぎらわせてでも口にできない――そんな、特別なメッセージ。
だいじょうぶだよ、リリ。
自転車をこぐ僕の背中で震えながら、ギュッとしがみついてくるリリに、僕は心の中でそっと語りかける。
君の心は、今はこの夜のように暗いけれど。
けれど、夜はいつかは明ける。かならず朝はやってくる。
君の心にも、いつかきっと、朝日が射し込む時がくるから。
今までそうしてきたように、今日も夜明けまで、僕はずっと一緒にいるから。
だから泣かないで、リリ。リリ――
そして、今日も夜が更けていく。暗い道の奥に、僕とリリの別れの結末を垣間見たような気がして、僕は震えた。リリは悲しみの傷が癒えても、僕と一緒にいてくれるだろうか。拠りどころなど何一つない、不確かな関係。この狂おしく優しい夜は繰り返し、どこまで続いてゆくのだろう。
僕とリリの夜――
開け放しの窓から入ってきた風が薄いカーテンを揺らめかして、そうして漏れてきた月の光が、ベッドに横たわるリリの無防備な寝顔を照らす。たとえばそんな瞬間を、僕はきっと忘れない。
リリ。好きだよリリ。いつかそう言えることを、僕はあの頃いつも何かに願っていた。

コメントしてください

Trackback Information

Contents Menu
