「じゃあね」 シンがそう言うのに、僕は車の窓から手を出して応えた。 駐車場から道路に出る。急な右折に、後部座席に押し込んだギターケースが揺れる音がした。 携帯電話の着信音が鳴る。 リリに送ったメールの返信が来たんだろう。信号待ちの間にチェックする。やっぱりリリからだ。 『いつもの場所にいるね』 信号が青に変わった瞬間に車を発進させる。バイトで貯めたお金で買った軽の中古車は、僕の気持ちと...
「じゃあね」
シンがそう言うのに、僕は車の窓から手を出して応えた。
駐車場から道路に出る。急な右折に、後部座席に押し込んだギターケースが揺れる音がした。
携帯電話の着信音が鳴る。
リリに送ったメールの返信が来たんだろう。信号待ちの間にチェックする。やっぱりリリからだ。
『いつもの場所にいるね』
信号が青に変わった瞬間に車を発進させる。バイトで貯めたお金で買った軽の中古車は、僕の気持ちとは裏腹に反応が鈍い。
リリと最後に会ってから、もうひと月になろうとしていた。
それだけの間リリに会わなかったのは、しばらくなかったことだった。リリが半年前に彼氏と別れてからは、ずっと週に2回くらいのペースで会っていたのだ。僕にとって今の状況は、ほとんど異常事態といえるほどだった。
お互いのタイミングが合わなかったといえばそれまでなのだけれど、彼女に会おうという提案をすると、いつもリリにはなにか用事があって会えなかったのだ。だんだん避けられているような気がし始めて、正直焦りを覚えてもいた。だから今日は会えるとわかってとても嬉しかったし、同時にいいきっかけになるかもしれないとも思っていた。
僕とリリは友達だった。リリが彼氏と別れる前と比べてどれほど距離が縮まっているとしても、肝心なところで、僕らは友達のままだった。
けど、ずっと決意はしていたんだ。彼氏と別れた時に、リリの心にできた傷。その傷が癒えたら好きだと言おうって。
別れたばかりの頃、リリは僕という存在を求めた。彼の思い出の品がたくさんある自分の部屋に戻りたくないと、頻繁に僕の部屋に泊まった。
眠るとき決まって寂しがり、僕に抱きしめていて欲しいとせがむ。『何もしないでね』けどいつも、同時にそうも言った。リリの肩を僕は何度抱きしめただろう。同じベッドで眠りながら、狂おしさを体の奥に閉じ込めるようにして。
だから、リリがこれだけの期間僕に会わなくても平気だったのは、自分の部屋で一人きりで眠れていたのは、彼女の心の傷が癒えてきているということなのではないか。僕は会えないことを不安に思いながら、同時にそんな期待を抱いてもいた。
期待と不安に心を乱され続けた日々は、ついに僕に重大決心をさせることになった。今までの中途半端な関係には、もうさよならだ。リリに告白するのだ。今日、リリを僕のものにする!
住宅街の、緩やかな坂道。街路樹のそばにリリは立っていた。ひらひらのカーディガンが風に揺れている。
「リリ、おまたせ」
助手席に乗り込んだリリにそう言う。ううんと、彼女は首を振る。
「練習どうだった?」
「ああ、順調だよ。次のライブ、楽しみにしてて」
リリと会う直前まで、僕はシンやオキ達と貸しスタジオでバンドの練習に励んでいたのだ。そして順調だというのは嘘だった。今日は久しぶりにリリに会えるということですっかり気持ちが高ぶってしまい、ミスを連発して彼らにすっかり呆れられていたのだから。
「しかし久しぶりだねぇ」
小さな嘘を、別の言葉で覆い隠すようにそう続けてみる。その言葉が、我ながらあまりにもわざとらしく聞こえて、直後にしまったと思った。僕は嘘をつくのが下手だ。そして彼女は嘘を見抜くのが信じられないくらい上手だった。
「うそ。練習あんまり順調じゃなかったんでしょ」
案の定、彼女はおもしろそうに断定する。
「ユウくんは本当嘘がつけないのね」
なんでわかるの? 僕の質問に彼女はいつも答えてくれない。だって教えてあげたら、ユウくん、嘘をつくのが上手になるかもしれないでしょ? だから教えてあげない。のだそうだ。
久しぶりに会ったから、話すことは山ほどあった。バンドのこと。買って二ヶ月になるこの中古車の調子について。昨日、妹が彼氏を連れてきたこと。
「あゆみちゃんの彼氏って年上?」
「ちょうどハタチになったところだって言ってたから、あゆみよりふたつ上、俺のひとつ下だね。」
「ふーん、どんな感じの人だった?」
「うん、なんかちょっとヤンキーぽかったかな」
「えぇ、そうなの?」
「うん。けどいいやつだと思う。今度やるライブも見に来てくれるって言ってたし」
「……それって、ライブに来てくれるからそう言ってるだけなんじゃない?」
そんな話をしながら、僕はどこに行こうか考えていた。夜10時。食事するならファミレスかな。以前良くそうしてたみたいに、コンビニでなにか買ってうちで食べるのでもいいけれど。けれどあんまりしばらく会ってなかったから、それは少し切り出しにくい。
いや、そもそもリリはお腹がすいてるんだろうか? どこか行きたいところはあるのかな?
「私、久しぶりに海がみたいな」
僕の考えを見通すようにリリが言って、行き先が決まった。もしかしてリリは人の心が読めるんじゃないだろうか。少なくとも僕の心は。
そんな疑惑を抱きつつも、僕はひそかにしめしめと考えていた。海か。告白するのに、海は絶好の場所だと思ったのだ。
僕の告白に彼女はどんな反応を示すだろう。喜んでくれるだろうか?
告白の言葉を聞いて感激の涙を流すリリ。優しく抱きしめる僕。そしてふたりの唇の距離はゆっくり縮まり……。フフ。
「ユウくん、どうしたの?」
気がつけばリリが怪訝そうな様子で見ていた。どうやらエスカレートした妄想のせいで、知らず知らずのうちに顔がかなりにやけてしまっていたらしい。
「な、なんでもないよッ」
いけないいけない。ふたりっきりの車中で男がにやけながら運転するのはどう考えても良くない。気を引き締めなければ。
「オーケー。じゃあ海を見に行こう!」
僕は軽快なハンドルさばきで車の進路を変更させた。片思いにさよならするのは今夜しかない。目的地は海。ミッションはリリへの告白だ!
30分ほど車を走らせ、目的地である海辺に着いた。海の近いこの町では、行こうと思ったら海まではすぐだ。だから、本当は30分も車を走らせなくてもよかったんだ。
だけど、この海辺から見える海を彼女が好きなことを、僕は知っていたから。
車を止めて少し歩くとコンクリートの道が砂浜に変わる。テトラポットの小山が開けて、突然目の前に海が現れた。
波音と風の音。海から吹く風は少し寒い。ああ、だからリリはカーディガンを羽織ってきたんだなとその時になって思った。今日は、初めからリリは海に来たかったんだ。
「ねえ、ふたりで初めて海に来たときのこと、覚えてる?」
夜の砂浜をゆっくり歩きながら、リリは僕にそう聞いた。そんなこと、忘れているわけがない。その日リリは、あまりにも強烈な印象を僕に残したのだ。
冬の海。灰色の空を侵食するように、眩しい太陽が雲間から覗いている。風は穏やかだったけどとても寒い日だった。何組かのカップルが寄り添いながら海を眺めていた。犬を連れた男の人が歩いている。犬さえも、濡れた砂浜を避けるようにしていた。
いつでも、昨日のことのように思い出せる情景だ。
「冬なのに、キミは裸足になって波打ち際を歩き出した」
リリは笑う。
「ちょっとはしゃぎすぎちゃったね。けど、ユウくんはそれに付き合って、一緒に歩いてくれたよね」
「しゃれになんないくらい冷たかったよ」
今思い出しても鳥肌が立つくらいだ。
「私が転ばないように、ずっと手を握ってくれていた……」
けれどリリの手は暖かかった。
「あの時、嬉しかったの。すごく」
なんとなく予感はしていたけれど、リリはミュールを脱ぐと、月明かりが反射する海の中に足を浸した。あの時のように。
慌てて僕は駆け寄る。同じように裸足になってリリの体を支えた。
ああ、あの時と同じだ。あの時は年が明けたばかりの昼下がりで、今は九月の夜だという違いはあるけれど。
リリが海の冷たさに少し震えているのも同じだった。
いや、リリの震えの意味はあの時とは違っていた。打ち寄せる波を不安そうに見ているリリを見て、彼女がおびえていることに僕は気づいた。
夜の海は、それ自体がまるで夜そのもののようだった。真っ黒な水が体を吸い込んでいきそうな錯覚にとらわれる。
「きゃ」
思わず、僕はリリを抱きしめた。リリが海の水に溶けていってしまわないように。
後ろから抱きしめたリリは、ひと月前と比べて、なんだかさらに細くなったように思えた。
「ユウくん、苦しいよ」
気がついたら結構な力でリリを抱きしめてしまっていた僕は、慌てて抱きしめる力を弱める。するとリリは、まだ回していた僕の腕の中で振り返った。リリを抱きしめている形で、僕たちは向き合った。
「あ……」
息をついたリリが、驚いたような眼差しで僕を見上げた。
月明かりの下。波の中で砂が舞って足をくすぐる。リリが濡れた瞳で僕を見つめている。
好きだ。とても自然にそんな気持ちが湧き上がってくる。僕はその大切な言葉を、リリに伝えようと口を開いた。
「電話があったの」
けれど、先に口を開いたのはリリの方だった。
「す……え?」
まさに好きだと言おうとしたその時だった。唐突過ぎるリリの言葉の意味をすぐには飲み込めず、僕は聞き返した。
リリは言った。目を、僕からは逸らして。
「電話があったの……彼から」
その言葉を聞いた瞬間の僕の震えを、彼女は感じただろうか。
リリがいなくなってしまう。そう思ったのは、けれど夜の海のせいではなく。
もう一度強く抱きしめようか一瞬迷って、僕が選んだのは逆のことだった。回していた腕をゆっくりほどくと、リリは僕の腕に手を絡ませて横に立つ。引いていた波がまた静かに押し寄せて、足を冷たい感触とともに海に溶かした。
「彼、私がいないとダメなんだって言うの。いまさらだと思わない? 本当いまさらだよね」
「そうだね」
僕は答えた。精一杯、優しい声で。
「でしょ? 本当、いまさらなのに、ね……」
別れた彼氏の、どこかで聞いたような薄っぽいセリフ。その言葉へのリリの答えを僕は疑わない。リリのことは誰よりもわかっているから。
「……そうだね」
僕はもう一度同じ言葉を繰り返した。そしてさらに言葉を続けるために声を振り絞る。抑えようのない声の震えが、波の音で消されてしまえばいいと願いながら。寒さのせいだとリリが思ってくれればいいと、ただ祈りながら。
「よかったね、リリ」
その言葉に、リリは少しの間だけ沈黙して、そして頷いたんだ。
それからなにをどうしたのか、記憶が定かではないけれど、気がつけば僕はリリを助手席に乗せて、リリのうちまで送っていた。
海で、そして帰りの車中で、いろんなことを話したと思う。僕は努めて明るく話した。よかったねと、何度も言った。僕も嬉しいと、目を細めながら偽りの気持ちを、偽りの顔でリリに話して聞かせた。
まるで彼と別れる前に戻ったみたいに、リリは彼のことを楽しそうに話す。僕は時折あいづちを打ちながら、静かにそれを聞く。
本当に、まるで昔に戻ったようだった。あの頃と違うことなど何一つないと、信じてしまえるほどに。
戻ろう。僕はそう思っていた。たまに会っては、また以前のように彼氏の話を聞いてあげる。そんな関係に。
リリが楽しそうに喋っているときは、僕も楽しく聞こう。
落ち込んでいるときは励ましてあげよう。
泣きそうにしているときは、一生懸命慰めよう。
リリが笑顔でいるときは、僕も笑顔でいよう。
それは難しくもなんともないことだから。ただ僕は、リリの幸せを思って話していたらいい。
そしたら、それだけで僕は、彼女にも見抜けない嘘をずっとついていられるだろう。
「じゃあね」
住宅街の、緩やかな坂道。街路樹のそば。車から降りたリリは、彼女を見送るために降りた僕にそう言って握手を求めてきた。握りしめた手はやっぱり暖かい。
「――て」
リリがなにか言った。とても小さくて、僕には聞こえない声で。
「え?」
「ううん」
笑った大きな瞳から涙がこぼれて僕の手に落ちる。
「さよなら」
リリが言った言葉の意味に気づき、僕は目を閉じた。
以前リリは言っていた。さよならって言葉、好きじゃない。だって、なんだか永遠のお別れの言葉みたいに聞こえるんだもの
永遠の別れの言葉――それが、リリのさよならの意味。
僕は手を離した。目を閉じたままで。
コツリ。リリのミュールの音がする。
ゆっくりと、ためらうように音は遠ざかっていく。
「好きだ」
小さな声でつぶやいた。たぶんそれは、小さすぎて自分にしか聞こえていない。
「好きだ」
繰り返し言う。
目を閉じたまま、僕は遅すぎる告白を続けた。リリ、僕はキミのことが好きだよ。リリのことを愛してるんだ。だからずっとそばにいたいんだ。リリ――
けれど、リリはもう行ってしまっているはずだ。
だからこの告白を聞いている人は誰もいないだろう。
僕は目を開けた。
緩やかな坂の途中。まばらに立つ街灯。街路樹の下。
優しい夜の風。
僕はそこに、ひとりきりで立っていた。
帰りに、うちの近くのコンビニに車を止めた。
リリと自転車でふたり乗りして良く来ていたコンビニだ。ほんのひと月前までは。
なのに、今はそれが遠い日の出来事のように思えてしまう。
優柔不断な僕はいつものようにたっぷり時間をかけて買い物をして、そして車に戻る。けれどすぐには運転する気になれず、運転席からじっとその青い建物を眺めた。
コンビニから漏れる眩しすぎる明かりの陰に、僕とリリが隣同士くっつくようにして座っているのが見えた気がした。
僕は一生懸命、元気のないリリに話しかけていて、リリはそれを、けれどとても優しい表情で聞いてくれている。
そう、キミはいつもそうやって、口下手な僕の話を聞いてくれてたね。
けれど、リリ。僕はキミに、結局なにも伝えられなかった。
もしかしたら、キミはずっと待っていてくれてたのかもしれないのに。
ふたりきりで過ごした、幾つもの夜。リリはいつだって、僕がなにか言おうとするのを遮らずに聞いてくれていた。
ねえ、リリ――
あの夜を覚えている?
あの夜のことを、今も覚えている?
たとえばコンビニの外で、ただふたりきりでいた、それだけの夜。
もしも、もう一度あの夜に戻れたなら、リリに伝えたい言葉があるんだ。
あの夜に戻れたなら。

コメントしてください

Trackback Information

Contents Menu
