4 下北沢のライブから2週間が経った。 今日は貸しスタジオで練習する日だった。次のライブも4日後に控えているし、みな追い込みの気分で、それなりに一生懸命練習している。 2時間くらいぶっ通しで練習して、少し休憩をとることにした。 「オキ、今日練習終わったら飲みに行かない?」 タバコを吸っていると、シンがそう提案してきて驚いた。 「珍しいな。おまえが飲みに誘ってくるなんて。酒苦手じゃな...
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下北沢のライブから2週間が経った。
今日は貸しスタジオで練習する日だった。次のライブも4日後に控えているし、みな追い込みの気分で、それなりに一生懸命練習している。
2時間くらいぶっ通しで練習して、少し休憩をとることにした。
「オキ、今日練習終わったら飲みに行かない?」
タバコを吸っていると、シンがそう提案してきて驚いた。
「珍しいな。おまえが飲みに誘ってくるなんて。酒苦手じゃなかったっけ?」
「最近よく飲むんだ。ちょっとは強くなってきたよ」
まじまじと俺はシンを見る。
「なんかあったのか?」
「うーん、まあ、ちょっとね」
思っていることをいつもためらわず言うシンにしては、それは珍しいくらい歯切れの悪い答えだった。
練習の後、貸しスタジオの近所にある居酒屋に、シンとふたりで入った。
「おつかれ乾杯!」
シンがそう言い、俺たちは音を立てて乾杯した。
シンはしばらくバンドの話とか最近ちょっかいを出している女の話とかを大して身の入らない様子でずっと喋っていたが、レモンサワーを2杯も飲んだところで、これ以上酔うとまともに話が出来なくなるとでも思ったんだろう。ようやく本題に入ってきた。
「最近、アヤと連絡が取れないんだ」
「そうなのか?」
「うん。メールしても返事返ってこないし、電話しても出てくれない。ほら、下北沢のライブの後からだよ。僕、なんかアヤを怒らせることしちゃったのかなあ。――オキ、アヤからなんか聞いてない?」
「……なんで俺に聞くんだ?」
「オキとアヤ、結構仲いいじゃん。知ってるよ僕は。アヤはなんでもオキに相談するんだ」
「悪いな、俺のほうにも特に連絡は来てないよ」
「そうかあ」
シンは仕方なさそうに笑った。
アヤからなにも連絡が来てないのは本当だった。だけど、俺はアヤがシンからのメールや電話を無視する理由をたぶん知っていた。
どう考えてもあの下北沢での打ち上げの時、シンが優里さんを見た、あの熱すぎる視線が原因だろう。
アヤは知ってしまったんだ。シンが本当は、誰のことを好きなのかということを。
「やっぱり、アヤに振られちゃったのかなぁ」
ため息をつきながらそう言うシンに俺はわざと明るい声で言った。
「別に女はアヤだけじゃないだろ? 特におまえの場合はさ。さっきも別の女の話を楽しそうにしてたじゃんか」
「そうだけど……けどどうしたのかな。どうもダメみたいなんだ。この前も、最近知り合った女の子とエッチしたんだけど、夢中になれないの。昨日も別の子で試してみたけどダメだった。気持ちよくないんだ。ていうかむしろ痛いんだ。ここがさ」
胸を押さえて、シンは寂しそうに笑った。
「――僕、アヤ以外の女の子とはしたくないみたい。だからエッチの代わりに酒に溺れようと思ってさ。だからここんとこ、お酒ばかり飲んでる」
俺は頭が痛くなった。飲みすぎのせいとかでは全然なく。
「おまえが優里さんのことを好きなのは知ってるぜ。何年も前におまえから聞いたからな。ようは、アヤは優里さんの代わりだったんだろ? アヤにも、付き合い始める前に言ったんだよな。アヤのことは好きだけど、あ、愛せないって」
愛せない、って部分を口にするときに恥ずかしさのあまりどもってしまう。こんな恥ずかしい言葉を、女を目の前にしてる時以外に言う羽目になるとは思わなかった。
「オキはやっぱりなんでも知ってるなあ」
エヘヘと笑いながらシンは言う。笑ってる場合じゃないっての!
「うん。アヤには付き合う前にちゃんと言ったよ。好きだけど愛せない。僕には他にいちばん好きな人がいるんだって。優里のことが好きなんだとは、さすがに言ってないけど」
シンは自分の姉のことを、たいてい優里と呼び捨てにする。
「今はどうなんだ?」
この際、単刀直入に俺は聞くことにした。
「今もアヤのことは――その、愛してないのか? 優里さんのことだけを、おまえは愛してるのか?」
「わかんない」
俺に何度も恥ずかしい言葉を言わせながら、シンは全く俺の期待に応えない返事をした。ムカムカムカ。俺はいい加減腹が立ってきた。
さすがにそんな曖昧な言葉では俺が納得しないと気づいたんだろう。シンは慌てて言葉を続ける。
「優里のことは今でもいちばん好きなんだと思う。もうずっと好きでいすぎて、体の一部になっちゃったみたいに。優里のことが好きだって気持ちは、それくらい僕にとっては自然な気持ちなんだよ。けどさ、アヤのことは正直よくわかんないんだ。アヤは僕にとって、とても大事な女の子だと思う。一緒にいると楽しいんだ。エッチしてると、その間は優里のことも完全に忘れられるくらいアヤに夢中になるし。好きだよアヤのこと。けどさ、やっぱり僕は優里のことを愛してるし、アヤへの気持ちはそれとは違うんだ」
俺はため息をついて、今の心境を正直に口にした。
「……おまえの言うことは、俺にはややこし過ぎて、よくわからん」
「僕にもよくわからないんだよ」
困ったように言いいながら、3杯目のレモンサワーを飲む。
「けどな、アヤのことをおまえがどれだけ必要としているか、それならよくわかってる」
「え、本当に?」
「ああ、じゃないとあんな歌、作れねえよ」
次の日、俺はアヤの携帯電話に電話した。
『はい』
「なんでシンに連絡しないんだ?」
『……オキには関係ないでしょ』
関係ないだと!? 誰のおかげで、昨日あっけなく酔いつぶれたシンを介抱する羽目になったと思ってんだ!
「本当に、関係ないと思うのか?」
沈黙。アヤは泣きそうな声で言った。
『もうイヤになっちゃったの。アヤね、シンくんのこと、心のどっかで期待してたんだと思う。いつかアヤのことをいちばん好きになってくれるんじゃないかって。けどもう無理! だって――!』
そっから先は声にならないようだった。電話の向こうで、アヤは泣き続ける。
どれくらい経っただろう。ようやくアヤが多少落ち着いたのを見計らって、俺は言った。
「3日後のライブには、絶対来いよ」
『やだ。もう行かない。決めたの。シンくんとはもう会わないって』
「だったら、ちゃんとシンにそう言ってやれ」
『言う義理ないもん。なんでアヤのこと最後まで愛してくれなかったひとに、そんなこと言ってあげなきゃいけないの』
「3日後のライブで、新曲を1曲やるんだ」
『だからそれが――』
アヤが言い募ろうとしたのをさえぎって俺は続けた。
「シンが作った曲だ」
『――え?』
「あいつが、初めて自分と向き合って作った曲だ。もう会わないのなら会わないでいい。別れの言葉を伝えないのなら、それでもいい。けど、せっかくあいつが、初めて自分自身と向き合いながら作った曲なんだ。たぶん、いちばんおまえに聞いてもらいたいんだと思う。だから聞いてやれよ」
返事をせずに、アヤは電話を切った。
ため息をつく。
めんどくさいヤツらだ。誰も彼も。そう思った。
人の世話をついつい焼いてしまう自分の性格が、いい加減恨めしい。
5
3日後。ライブの夜。
この夜のライブも、場所は前回と同じだった。下北沢のライブハウス。
お客さんもそこそこ来てくれて、俺たちのテンションも結構高かった。
今日も後輩の栞は来てくれていた。もはや目当ては俺の演奏ではないだろうけどな。
あと、ちょっと驚いたことに、ライブハウスのいちばん奥、隅のほうに洋輔がいた。一年前の事故で左手を負傷してドラムを続けられなくなってから、洋輔は音楽を完全に断っていたはずだ。
忌まわしい事故だった。あの事故で洋輔は左手の自由を失い、音楽を失い、やけになって酒と女に溺れて、やがてリリも失った。まあ、リリとは最近よりを戻したけどな。
どうやらいまだに酒と女にはだらしないみたいだが、それでも洋輔はやっと、かつての自分を取り戻そうとし始めているのかもしれない。そう思うと俺は少し嬉しくなった。
洋輔は今日は黒いシャツを着ていた。長い茶髪を若干前にたらし気味にして、つばのついた帽子をかぶっている。おまけに暗いライブハウスの中だというのに薄い色のサングラスをしているのは、もしかして顔を隠しているつもりなのだろうか。
けど確かに俺以外のメンバーは洋輔に気づいていないようだから、それは成功しているのかもしれない。
もしハルトが洋輔を見つけたら、ハルトの演奏に支障がでないと限らないから、洋輔のその判断はありがたかった。
シンの姉の優里さんは来ていなかった。それもそのはず、シンに聞いたところによると、優里さんは一週間前に旦那さんのいるアメリカに帰ったらしい。
アヤはまだ来ていない。
今日の俺たちの演奏は6曲。シンの作った新曲は4曲目に演奏する予定だった。
演奏が始まった。
一曲目が終わり、2曲目が終わる。それでもアヤはこなかった。
そのまま3曲目に入る。歌は『吹く風のように』。前回は最後に披露した歌だ。
『俺は風のようでなくていいんだ』
そのフレーズと共に演奏が終わる。客の反応もいい。しかしこの歌をライブで歌うと、シンのやつ必ず泣くな。そんなにこの歌に感情移入してるんだろうか。ハルトの作ったこの歌は、シン本人とはかなりイメージ違うと思うんだが。
いよいよ次は4曲目だ。シンが初めて作った歌。
その前にMCを入れる。中盤のMCはたいてい俺の役目だ。ちょっとした雑談と、次のライブの告知。アヤはまだ姿を見せない。俺はそれらをできるだけゆっくりと喋った。
けれど別に俺はMCが得意なわけでも、好きなわけでもない。そんなに引き伸ばせるものじゃなかった。しかも次のバンドもあるから、時間自体に制限がある。
もうこれ以上引き伸ばせない。俺は思い切って言った。
「では次の曲を聞いてください。曲はGLASS EYES」
お客さんがくれる拍手の中、しかしバンドのメンバーは全員戸惑っていた。
「おい、オキ。曲順間違えてるよ」
ハルトが俺に耳打ちする。
「わかってる。――やっぱりシンの曲は、いちばん最後がいいんじゃないかって、さっき思ったんだ。だから突然で悪いけど、曲順変えさせてくれないか?」
「ええ、あの新曲を最後にやるのか? まだ一度もお客さんの反応を見てない曲を最後に持ってくるって、結構冒険じゃないか?」
「頼むよ。俺の勘を信じてくれ」
アヤがくるのをギリギリまで待ちたいんだ。とは、俺は言えなかった。
ハルトはもしかしたら、そういうバンドを私物化したような発言を嫌うかもしれないからな。代わりに俺は、精一杯強い目でハルトに訴えかけた。
ハルトは俺の目に、何かを感じてくれたようだった。
「……わかった。シン、次はGLASS EYESだ。シンの曲は最後にする」
「……うん、わかった」
「サンキュー」
俺はハルトに礼を言った。
「気にするなよ。どうせなんか理由があるんだろ? さっき言ったのとは別の」
ハルトの笑顔に、俺は思わず目を伏せてしまう。
洋輔の言うとおり、ハルトは優しいやつだ。優しすぎて、人の気持ちを思いやるあまり、たまに臆病すぎるように思えることもある。
けれどこのバンドで、ハルトの決定にむやみに逆らうやつはひとりもいない。
それはハルトが、いつもバンドのことをとても大事に考えてくれていると、みんなが信頼しているからだ。バンドのことや、俺たちひとりひとりのことを、こいつはいつもいちばんに考えてくれている。俺たちのそんな期待を、ハルトはただの一度も裏切ったことはなかった。俺は改めてそれを思い出した。
ハルトは優しいやつだ。そして信じられるやつだ。洋輔、おまえもハルトのそんなところが好きなんだろう?
なかなか曲を始めないのに、お客さんがざわつき始めていた。
そのざわつきを押さえつけるように4曲目が始まった。
GLASS EYES。硬質の音を集めた、俺たちの持ち歌の中ではいちばんハードなナンバーだ。
とても速い、オーディエンスのテンションを煽る曲だ。同時に、演奏側のテンションもどんどんあがっていく。
みんなが無意識のうちに好き勝手な暴走をしようとする中、けど俺の音はそれを制し続ける。
どんなときも、走らず、ひたすら淡々と音を出す。全体の調整役。それが俺の役割だった。そんな地味な役割が、けど俺は結構気に入っていた。
なんだかんだ言って随分世話好きな性格の俺に、このベースってやつはたぶん合っているんだと思う。
意味もなく走ろうとするメンバーを、ベースの音で制御する。ためて。ためて。もっとためて。
ほらここだ! 俺は解放した。
シン!
ベースの弦を叩きつけるように弾いた。この音でシンのやつを怒鳴りつける。
ほら、歌え!!
シンのシャウトが、最高のタイミングで爆発した!
オーディエンスが一気に盛り上がる。ドラムのリクと一瞬目を合わせ、リズム隊同士でつかのま喜びを分かち合った。
そのままの勢いで4曲目が終わり、音を途切れさせずに5曲目に入る。本当だったら最後だった曲だ。
淡々とベースを弾きながら、俺はライブハウスの防音扉から目を離さなかった。
アヤ。くるんだ。俺は願った。
しかし、5曲目が終わってもアヤはこなかった。
お客さんの歓声は今まででいちばん大きなものだった。本当はこの歓声でライブが終わる予定だったんだけどな。
けどあと1曲。たったひとりの女の子に、聞かせたかった歌がある。
息を整えて、シンがステージからお客さんに向けて言った。
「最後の曲は、新曲です」
最高潮に盛り上がった客は、大きな拍手をくれる。
シンは満面の笑みを浮かべた。
「この曲は、本当はいちばん聞かせたい人がいたんだけど。けどその子は今日は来てくれてなくて。だからその子に聞いてもらうのはまた次の機会かなって思ってます」
振られたのか? 客のひとりがそんなことを言った。どっと笑いが起きる。シンはニヤリとした。
「ま、人生そんなこともあるよね。じゃ歌います。新曲。CAPACITY OVER」
ギターソロから入る。
ギターの音だけが鳴り響く中、シンは歌い始めた。
『廃墟の中に 立ちすくむ冷たい鉄塔
風に揺れる途切れたロープ
あんなものにでもぶら下がってみたら
こんな痛みなんて 忘れられるのだろうか』
あの日、この歌をシンから初めて聴かされたとき、すぐにこれは優里さんとアヤのことを歌っているのだとわかった。
(アヤに聴いてもらいたいんだ)
歌い終えた後、少し照れくさそうにしてシンは言っていた。
徐々に、俺も含めた他のメンバーの音が入り始める。
曲のペースが一気に上がっていく。
『巨大な交差点 向かってくる人たちはみんな
それぞれあさってのなにかを見てた
孤独を知って 立ちすくみそうになる
俯いてロボットのように 足を動かした
灰色の空は落ちてこない』
そして最初のサビの部分。
『終わらない夜の中で
終わらない雨に濡れて
いつも差し伸べられている手も 僕は握れない
想いに気づかれるのが怖くて』
優里さんへのどうにもならない気持ち。
シンはいったいいつから、こんな気持ちを自分の中に抱え込んでいたんだろうか。
『逃げ出した僕を 相変わらず
僕のとは違う愛を込め 見守ってくれている
そんな目で見られたくないから 逃げ出したのに』
間奏に入り、ギターソロ。この曲ではシンがソロを受け持つことになっている。悲しいくらい澄んだシンのギターの音が、突き刺すように閉ざされた空間を疾走する。
その時ライブハウスの防音扉が開いた。なにかの予感がして俺は開いた扉を見た。
やっぱり。
そこにはアヤがいた。
じゃあ無駄ではなかったんだな。喜びがベースの音に反映されようとしていたのを、意志の力で制御する。
シンも、アヤが来てくれたことに気がついたようだ。
当たり前だ。シンがアヤに、気づかないわけがない。
シン。おまえは好きに弾け。
ベースの音に、俺はそんな気持ちを込めた。
跳ね上がるようなギターの旋律がベースを踏み台に踊る。シンは歌った。
『歌を歌って 誰かと体だけ繋げて
キャパシティの足りないハートは
一時の喜びさえもすぐになくす
だからまた歌って 別の体を求めた』
アヤはじっとシンを見ていた。
これがたぶんアヤにとって、最後のシンの姿になる。少なくともアヤはそう思ってここまで来たんだろう。
そんなアヤを、シンは同じように熱い視線で見返していた。
『時の止まった場所 歌いながら出会った君は
こんなにもなにも持たない僕から
いったい何を 見つけてくれたんだろう
愛せないと言った僕を それでもどうして
そんなにまっすぐ見てくれるの』
2回目のサビに向かって、バンドのメンバー全員の出す音が俺の手を離れ、どうしようもなくシンの出す音に引き込まれていく。俺自身も。
クソ――!
微かな敗北感。そして圧倒的な喜び。
もうなるようになれ! クソ、やっぱりこいつら最高だ――!
『終わらない夜を越えて
終わらない雨を越えて
君が差し伸べてくれた手を 僕はそっと握る
キャパシティの足りないハートに
精一杯愛を 詰め込んで』
いつの間にかアヤは泣いていた。
シンも泣いている。本当によく泣くヤツだよな。
『そしてやっぱりこぼれていく愛を 絶望と共に捨てていく
かけがえないものと 知っているのに』
――シン。気づいてないのか?
ただアヤのことを思って歌う歌が、空気だけでなく、これほど人の心を震わせてるってのに。
この歌に愛がないとでも? おまえが歌っているのは、切ない、純粋なラブソングじゃないか。
『終わらない夜を越えて
終わらない雨を越えて
君が差し伸べてくれた手を そっと握り締める
またこぼれ落ちるのを知りながら――』
アヤ。届いたよな。
シンの気持ち――おまえに。
『それでも精一杯 握り締めたんだ』
最後の一音が空気を震わすのを終えて。長い拍手の中、シンとアヤはお互いを見詰め続けていた。
アヤがゆっくりと微笑んだ。右手を胸の前に出し、しぐさと口の動きでシンにその言葉を伝えた。
バイバイ。
アヤがそう言ったのがわかって、シンは悲しげに微笑む。
嬉しいときも、悲しいときも、いつからこいつは、どんなときでも笑顔を向けることしかできなくなってしまったんだろう。
けど、そのときアヤの口が、また開いたんだ。
ま・た・ね。
「――ええ、それどういう意味!?」
けれどそのシンの疑問には答えてくれず、アヤは悪戯っぽい笑みを残して、俺たちに背を向けて去っていった。
呆然としているシンを、俺は少し気の毒な思いで見た。
たった3音。
それだけで、今シンの心は気の毒なくらいかき乱されているんだろう。俺はため息をつく。
やっぱり女には、男は敵わない。
けどまあ、とりあえずはよかったな、シン。俺はもういい加減付き合ってられねえから、後はてめえで何とかしろ。
ひと仕事終えたという満足感と共に、俺は足元においてあったボルヴィックのペットボトルを手に取った。
ライブハウスの隅にいた洋輔と目が合う。と、洋輔がグラスを掲げて見せた。――驚いたことに左手で。
握力、戻ってきてるのか。
左手に持っていたグラスは、遠めに見ても少し震えていたが、誇らしげに掲げられていた。
それに合わせて俺もボルヴィックを掲げてみせる。
「乾杯」
声に出して言った。
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