「彼と別れたの」 ラブホテル。ぼくの胸板やら腕やらに唇を押し付けて遊んでいたアヤが突然そんなことを言った。 「そうなんだあ」 そろそろタバコが吸いたくなって、もぞもぞし始めていたぼくは、彼女の目を見る。 「その割には落ち込んでないね」 アヤが前の彼氏、じゃもうないか。前の前の彼氏と別れたばかりの時のことを思い出す。あの時は、確か10日間くらいは落ち込んでた。 「うん、新しい彼が、その後なぐ...
「彼と別れたの」
ラブホテル。ぼくの胸板やら腕やらに唇を押し付けて遊んでいたアヤが突然そんなことを言った。
「そうなんだあ」
そろそろタバコが吸いたくなって、もぞもぞし始めていたぼくは、彼女の目を見る。
「その割には落ち込んでないね」
アヤが前の彼氏、じゃもうないか。前の前の彼氏と別れたばかりの時のことを思い出す。あの時は、確か10日間くらいは落ち込んでた。
「うん、新しい彼が、その後なぐさめてくれたから」
まさかぼくのことじゃないよな?
そう思って警戒してたらアヤは笑った。シンくんのことじゃないよ。シンくん彼氏にしたら、アヤ、嫉妬しすぎて死んじゃうもの。
「なんだあ、ちょっと残念だな」
ガリ。安心して軽口を叩くぼくの腕を、アヤが強めに噛んできた。
「いたっ」
ちょっと、それ強くかみ過ぎだから!
「ねえ。今日、すごーくよかったよ?」
頬をすり寄せながら言うアヤがとてもかわいくて、ぼくは彼女の頭を、自由なほうの手を回して撫でてやる。
「へえ、それはライブが? それとも……」
言いながらアヤの唇をすくい取るように舐める。彼女の舌がすぐに出てきて、ぼくの舌に絡まった。
「ふふふ。さあ、どっちでしょ――あん、もう、ダメッ」
そのままエスカレートし始めたぼくの右手を優しくつかまえて、アヤは叱るような目でぼくを見た。
「ダメよ。終電間に合わなくなっちゃう。今日はこれから彼のうちに行くんだから」
なにぃ! それをきいてぼくのテンションは一気に下がった。
「ええ、ぼくとしたばっかりなのに、これからまたそいつとするつもりなの!?」
「だって、付き合い始めたばかりだし♪」
そういって、ぼくを押しのけて、アヤはベッドから降りた。バスルームのドアを開けながら振り返って首をかしげる。
「アヤ、今すごく求められてるのよ? だからシンくんのことばかり相手してあげられないの。ごめんね?」
ドアの閉まる音と、まもなく始まったシャワーの音。そんなのをききながら、ぼくは両膝を抱え込むような格好でベッドに座り込んだ。
しょんぼりした気持ちとは裏腹に、まだまだ元気いっぱいなぼくの相棒に「今日はもう終わりだってさ」と言ってやる。相棒をしまうためにパンツを探して目を泳がせた。
見っけた。よりにもよってパンツはギターケースに引っかかってブラブラしてた。そういえば最中に、勢いよく投げ捨てたんだっけ。
ぼくは思わず吹き出してしまう。ライブで張り切って歌いすぎたせいで少しかすれた笑い声が、ラブホテルの閉ざされた空間の中で、意外なくらいきれいに響いた。
セックスとライブ。そんなぼくの一日を、このパンツとギターはユーモアたっぷりに象徴してくれてた。写真をとっておこうと思って携帯電話を探す。あったあった。パシャリ。
GUITAR & PANTS. 今度そんな歌を書こうかな♪ なんて考えながらぼくはパンツに手を伸ばした。
次の日、昼前まで寝てたら携帯電話の着信音に起こされた。
ハルトだ。ハルトは一緒にやってるバンドのメンバーで、リードギターを担当している。彼の性格をそのまま映し出してるみたいな、とても純粋な音を出すやつなんだ。
そんなハルトの電話に、けどこのときばかりは正直出たくなかった。だからって嫌なことを先延ばしにしても、あんまりいいことはない。ぼくはあきらめて電話に出ることにした。
「……はいはい」
案の定、ハルトは怒っていた。昨日のライブのあと、清算にも打ち上げにも付き合わずにさっさとアヤと消えてしまったことがその理由だ。
たまにだったら大目に見てもらえるんだけど、最近続いてたからなあ。
「ごめんなさい。次はちゃんと参加するので許してください」
ひととおりハルトの言葉に耳を傾けた後、俺は素直にそう謝った。
実際問題ハルトの言うことになんの間違いもない。ライブの後の清算はもちろん、打ち上げだってせっかく来てくれた人たちと交流を深めるための大事なイベントだった。
サイドギター&メインボーカルのぼくが打ち上げに毎回参加しないじゃ、来てくれた人たちのテンションも下がっちゃうよね。
ほとんど涙を流さんばかりに謝っていたら、ハルトはしょうがないなというように携帯電話の向こう側の世界でため息をつき、ぼくのことを許してくれた。ハルトは厳しいことも言うけれど、優しいから好きだ。
「ありがとね、ユウくん♪」
思わず調子に乗って、ハルトの特別なあだ名を口走ってしまい、すぐに後悔する。
「ごめんなさい!」
すぐに謝ったら、ハルトは電話の奥で笑った。気にするなよ。そう言って優しいハルトはまたぼくのことを許してくれる。
ハルトは、最近とても大好きな女の子にフられてしまったのだ。
リリっていうその女の子は、ハルトのことをユウくんと呼んだ。ハルトの苗字が結城(ユウキ)だからユウくん。ハルトのことをユウくんと呼ぶのはリリだけだったので、ぼくらもたまにユウくんと呼んでハルトをからかっていた。
けど、それもハルトがリリにフられるまでの話だ。フられてからのハルトは、なにもできなくなるくらい落ち込んでいて見てられなかった。からかうなんてとんでもない状態だったんだ。
最近ようやく少し元気が出てきて、ぼくらはホッとしていたところだった。そんな時にうっかり出てしまった軽口だった。けれどそれでもハルトは、ぼくの失言を優しく許してくれる。
ハルトは自分のことでは滅多に怒らない。怒るのはいつも、誰かに迷惑をかけたりしたときだけだ。たとえばライブ後の打ち上げをサボって、来てくれた人たちをガッカリさせること。バンドの練習に遅刻してメンバーの時間を浪費させること。女の子を傷つけること。そんなことに、ハルトは怒るやつだった。
リリって女はダメだな。決してハルトの前で口には出さないけど、ぼくはそう思う。
ぼくはリリのことが許せなかった。リリ自身が傷ついているときに、さんざんハルトに甘えておいて、最後にはハルトを捨てて元彼のところに戻ったリリのことが許せなかった。
(リリ、おまえの選んだ男はどうしようもないやつだぞ)
(いろんな女をあちこちで泣かして歩いているやつだぞ)
(こんなにいいヤツなユウくんが、せっかくおまえのことを好きでいてくれていたのに、よりによってあんなカスを選ぶなんて)
(やっぱりおまえは最低な女だよ)
そんなことを心の中でだけ思いながら、ぼくはハルトに声をかける。
「ねえハルト」
「ん?」
昨日ライブに来てくれてた、女の子いただろ? ええとオキの後輩の――。
「栞ちゃんのこと?」
「そうそうシオリちゃん。その子さ、たぶんおまえにちょっと気があるぜ」
「……突然なに言い出すんだよ」
「ん、この情報はほんのお詫びのシルシだから。とっておいてね」
本当は、ぼくが仲良くなろうかなって思ってたんだけど、キミにゆずるよ。
だから早く元気になってね、ハルト。
「そんなことより、シン。伝えなきゃいけないことがあるんだ」
「え、なに?」
次のハルトの言葉に、ぼくの世界を包んでいたオブラートが、いとも簡単に剥がれ落ちた。
「優里さんが帰ってきてるよ」
「…………」
なにも言わないぼくに、ハルトは続けた。
「さっきメールが来たんだ。帰ってきてるからシンに伝えて欲しいって。今、家にいるってさ」
その言葉を最後まできくこともなく、電話を切ったぼくは家を飛び出していた。
と、パンツ一枚でいたことに気がついて、すぐまた部屋に戻る。
慌ててデニムを履きながら、ぼくの頭の中は優里でいっぱいになってしまっていた。優里、ゆり、ユリ。
この電話の直後に、ハルトはぼくにメールを送ってくれていた。けれどそれに気がついたのは、これから2時間も経った頃だった。
『今日の練習には来なくていいから』
メールにはそう書かれていて、読んで、ぼくはまたハルトに感謝した。
セックスとライブ。どっちもぼくは大好きだけれど。
優里にはかなわない。
閑静な住宅街の普通の一軒家。特別な人がいるのでもない限り、絶対に目に留まることなんてない、そんな普通の家。
だけどここには今、優里が帰ってきているらしい。
それだけで、ぼくの指は震えてしまう。震える指を必死で制御し、どうにかインターホンを押した。
「はい」
機械に劣化させられた声。だけどそれでも優里の声は、これでもかとぼくをドキドキさせる。
「真太郎です」
ブツリ。
インターフォンが切れた。待ちきれなくて、ぼくは数を数える。
いち、に、さん、し……
無音になってきっかり10秒後だった。
「真太郎」
家の扉が開いて、優里が出てきて言った。
「魔法のインターホンだ」
ぼくは思わず口走っていた。
「え?」
「押すだけで、優里が目の前に現れた」
「あははは!」
ぼくよりも通る、透き通った声。
優里はぼくを門まで迎えに来て、そしてそっと抱きしめてくれた。
ぼくは言った。
「おかえり」
「ただいま」
泣いているぼくの顔を見て、優里はバカねと優しく笑ってくれる。
バカなことあるもんか。
優里と3年ぶりに再会して、そして今、彼女はぼくだけを見てくれているのに。
泣く理由に、他に何がいるだろう。
「おかえり、優里――姉さん」
「今日は泊まっていくんでしょ?」
そんなわけで、ぼくは優里と再会するために、久しぶりに実家に帰ってきていた。
優里と、父さんと母さんと、ぼくにあまりなついてくれない猫との、本当に久しぶりの一家団らんというやつだ。
晩御飯を食べながら、優里はぼくにきいてくる。
「久しぶりに家族がみんな揃ったんだから、こんな日くらい泊まっていくわよね? ていうかここ、あんたのうちなんだし」
「うん」
ぼくは優里の言葉に逆らえず、素直に頷いてしまう。
「それと後で、今持ってる携帯電話の番号とメアドも教えること。ハルトくんとすぐに連絡取れたから良かったけど――家族にも知らせないで連絡先変えるなんて、なに考えてんだか」
「ていうか、いったいいつの間にハルトのメアド知ってたんだよ?」
「あ、わたしが帰ってきたこと、ハルトくんから伝わったんだ?」
「そうだよ。優里、ハルトと一度しか会ったことなかったよね、確か?」
「こんなこともあろうかと、前にライブ見に行った時にきいてたのよ。オキにもメールしたんだけどね」
オキとぼくは幼なじみだ。うちにもよく遊びに来てたから、優里とも顔見知りだった。
「ああ、オキのやつ、今日は昼バイトなんだよ」
「そうなんだ? ――けど、こんなに早くあんたが捕まるとは思わなかった。ハルトくん、やっぱり律儀な男の子よねー。第一印象と実際の性格がおんなじだわ」
「……そういえば旦那さんは?」
「旦那は帰国してないよ。私だけ帰ってきたの」
「え、じゃあ出戻りってやつ?」
「あ、今嬉しそうな顔した。姉の不幸を想像して喜ぶなんて趣味悪いよ」
続けて出戻りじゃないよと優里は言った。日本には少しの間帰ってきているだけらしい。
なんだ。ぼくは内心がっかりしながら、久しぶりの母さんの手料理を口に運んだ。あ、それ私が作ったのよ。里芋の煮っ転がしを指差して優里がそう言う。おかげで今日は里芋の煮っ転がしを1年分は食べてしまった。
ご飯を食べ終わるとリビングに移動した。苦手なアルコールを付き合い程度に少しだけ飲みながら、優里の向こうでの暮らしをきく。優里が話している間、ぼくはその声をひとつもきき漏らしたくなくて一生懸命耳をそばだてた。
「で、真太郎、最近バンドはどうなの?」
優里の話がひと段落ついたら、彼女はぼくにそうきいてきた。優里は昔から、ぼくのことをフルネームで「真太郎」と呼ぶ。
ぼくはぼくでそれに対抗するように、3つ離れた姉のことをたいてい「優里」と呼んだ。姉さんとはたまにしか呼ばない。
優里がぼくの実の姉であることを、強く意識しないといけないとき。そんなときにしか、ぼくは優里のことを姉さんとは呼ばなかった。
「次のライブはいつあるの?」
「ええと、22日かな」
「そうなんだ。じゃあ行ってみようかな――はい」
「なに?」
「チケットよ。どうせ余ってるんでしょ? 買ってあげるからちょうだい」
「こ、こなくていいよ!」
「なによ。あーあ、本当男の子って、こういうので家族がくるのをいやがるよねえ。お姉ちゃん寂しいわ」
そんな話をしていたら、あっという間に深夜になった。
父さんと母さんはもう先に寝てしまっている。猫もソファーで体を伸ばしきって寝てた。今この家で起きているのは、ぼくと優里だけだった。
まるで世界でただふたり、ぼくと優里だけになってしまったみたいだ。
ぼくの心臓は次第に高鳴っていく。たぶんそれは、飲み慣れないアルコールのせいだけじゃなく。
「……今日はちょっと飲みすぎちゃったかな。やっぱり家だと安心してすぐ酔っちゃうわ」
お酒を飲んで、頬が赤くなっている優里が、そう言いながら缶ビールを頬にあてる。クスクス笑う優里の濡れた瞳が、ぼくにはとてもなまめかしく見えた。
ぼくはソファーから立ち上がった。
「ん、どうしたの?」
「ちょっと外の空気吸ってくるよ」
「はーい、いってらっしゃい」
言いながら優里はソファーに寝転がる。このまま寝ちゃうんじゃないかな。そう期待しながら外に出た。
家ではガマンしていたタバコに火をつける。
フウ。煙を吐き出すと、ようやく気分が落ち着いた気がした。
3年前、この家で家族で暮らしていた頃は、ぼくはおとなしい18歳の男の子だった。
タバコも吸ってなかったし、お酒も飲まなかった。自己主張とか全然しなくて、自分から人に話しかけることさえほとんどない、うーんとおとなしくて目立たない男の子だったんだ。
バンドとか、ライブとか、あの頃のぼくしか知らない人は、今のぼくがそんなことしてるなんて想像できないだろうな。
もうあの頃とは、ぼくはずいぶん変わってしまったんだ。けど今のぼくを家族に見せるつもりはまったくなかった。
うちの親たちはぜったい戸惑うと思うし、優里はきっと――うーん、けど、優里がどんな反応するかは全然わからないや。
タバコを吸いながら、駅に向かって歩き出す。
うん、実はもう、今日はこのまま実家に戻るつもりはなかったんだ。
電車の中で、昨日ぼくをおいて彼氏のもとに行っちゃったアヤに、メールを打った。
『急にアヤに会いたくなっちゃったよ。これから会えないかな?』
少しして返事がくる。
『ダメだよ。今日は彼と一緒にいるから』
また彼か。ぼくはうんざりして、それでもしつこくメールを送る。
『なんとかなんない? アヤに会いたいんだよ』
本当に、今日はどうしてもアヤに会いたかったんだ。
『……どうしてそんなに会いたいの?』
『もちろん好きだから』
『好きだけど、愛せない。でしょ?』
『うん。それじゃダメ?』
『いいよ。けど今日は会わない。今日はアヤのことだけ見てくれているヒトと一緒にいたいの』
携帯電話を電車の中で握りなおした。
「アヤのことだけ、か……」
声に出してつぶやく。
昔、アヤにとても真剣に告白された。
そのときにはもう何度か体の関係があって、相性もすごく良くて、それにアヤは一緒にいて楽しい女の子だった。
そんなアヤに好きだと言われて、ぼくはとても嬉しかった。アヤのことを大事にしたいなと思った。
だから正直に言ったんだ。
(ぼくもアヤのことが好きだよ)
(うん、けれど一番、じゃないんだ)
(アヤのことは好きだけど、一番好きな人がほかにいるんだ)
(違うよ。好きだよ。けど――たぶん愛せない)
ぼくの言うことに泣いてしまったアヤは、それからしばらくぼくの前に姿をあらわさなかった。
そして次に会ったとき、アヤはぼくに言ったんだ。
(アヤね。彼ができたの)
(アヤのこと、すごく愛してくれてるの。だからアヤにとっても、いちばん大事なヒトなんだ)
(だからシンくんは、アヤの2番目に大事なヒトだよ。ね、これでおんなじでしょ?)
そう言って、アヤはぼくにキスをした。とても情熱的な、2番目どうしのキス。
ぼくとアヤの関係は、どこかゆがんでる。
ふたりが時々寄り添っていられるように、寂しがりやなアヤが見出した、それはたぶんギリギリの折り合いのつけ方なんだと思う。
そしてぼくは、そのままなにもせず、ただアヤに甘えて過ごしている。
ぼくはずるい男だった。
本当はぼくは、ハルトをフって元彼のところに走ったリリのことを、最低だなんていう資格はなかったんだ。
大好きな人のことを忘れようとして、ハルトの気持ちを利用したリリ。
大好きな人のことを忘れられないまま、ただ寂しくてアヤを求める自分。
本当に最低なのはリリじゃなく、ぼくのほうだと思う。
「ごめんね、アヤ」
けれどぼくは。
そして1週間後の22日。下北沢でぼくたちのライブが行われた。
出来は……一言でいうとめちゃくちゃだったかな。
今日はアヤがライブに来てくれてた。
あの夜にメールで会うのを断られて以来、なんとなく連絡してなかったので、アヤがきてくれたのは結構嬉しかった。
ぼくがアヤを見つけたことに、彼女は敏感に気づいたらしい。目が合った瞬間、アヤはぼくに向かってアッカンベーをした。驚いたぼくはギターの弦を押さえそこなって、ちょっと演奏が乱れてしまう。
それでもすぐに演奏を立て直して、フィニッシュ。お客さんから拍手をもらって、ベースのオキにMCをまかせながらチューニング。その間に気持ちを切り替える。
次は最後の曲だ。1・2・・ぼくはギターを思いっきりかき鳴らした。
短いギターソロの後、一気に他の楽器のパートが入る。ぼくは声を張り上げようと熱い空気を吸い込んだ。
そのとき奥の防音扉が開いた。
いつもなら演奏中だろうと気にもしないようなことなのに、なぜかぼくの目はその扉に釘付けになった。そして中に入ってきたのは、なんと優里だった!
「優里!」
歌に入るまさにそのタイミングで、思わずそう叫んじゃった。ピックが滑って手から落ちる。
「ええ!?」
普段物静かなハルトがそんな声を上げた。それくらい思いがけない出来事だったらしい。そりゃそうだよな。ボーカルが、歌うタイミングで姉の名前を叫ぶなんて、予想できるわけない。
そんなわけで、あまりのぼくの突然のアクションに演奏は完全に止まってしまった。なにごとかと唖然とするお客さんたち。ライブハウスの中は一瞬シンとしてしまった。
ね、めちゃくちゃだろう?
そんな散々なことがあったライブだけど、どういうわけかあの派手なハプニングが、かえってお客さんたちの気を引いたらしかった。
「気にするな!」
「がんばって!」
と、暖かい声援をもらったぼくたちは、なんかもう開き直ったみたいな気分になっちゃった。
メンバー同士で一瞬視線を合わせる。リクがドラムスティックでカウントをとり始めた。1・2・・
ぼくのギターの音。そしてすぐにハルトのギターと、オキのベースとリクのドラムが入る。音の奔流の中、ぼくはギターから目を離して顔を上げた。
けしからんことに、アヤが心底おかしそうにケラケラ笑っていた。
さっき突然名前を叫ばれた優里は、わけがわからないみたいなポカンとした顔をしている。
アハハ! そんなふたりが面白くて、心の中だけで笑う。
そしてほとんど反射的に音に満たされた空気を吸い込み、5つ目の音――ぼくの声を張り上げた。
『子供の頃に なりたかったもの
特になかったけど しいていうなら風がよかった』
これ以上ないタイミングで声を出すことができて、一人鳥肌をたてる。
『風はあんなに軽くて
山のてっぺんまでも 軽々と飛び越えていくのに
俺の体は こんなにも重く
学校の 塀も飛び越えられない』
やばい、楽しい!
けどちょっと走り気味かも。
もう少し、気持ちを落ち着けたほうがいいのかな。
『風のようになりたいと
どんな大変なことも 軽々と超えていけるような
そんなやつになりたいと 何度思っただろう』
だんだん自分の声と、手に持つギターに意識が集中していくのがわかる。仲間の音が、鼓膜を貫き通すみたいに脳に直接響いてくる。
『そう男の子がみんな ヒーローに憧れたように
俺はきっと 風に憧れていたんだ』
風に憧れていた。これはハルトの作った歌だ。
ハルトらしい、とてもひたむきな、まっすぐ前を向いた歌。
『けどいつからか なくした気持ちなんだ
確かにガキだった 俺があの頃言ってたとおりで』
ぼくはこんなふうには生きられない。
自分のいちばん大切なはずな気持ちに向き合うこともできず、ただ、その気持ちから逃げることだけを考えている。
『風はあんなに軽くて
ビルの屋上までも軽々と飛び越えていくのに
俺の体は ますます重くて
駐車場の 塀も飛び越えられない』
優里から逃げるように家を出て、たくさんの女の子と付き合って、ヒマだしかっこいいからという理由で音楽を始めた。
『けど風のようになりたいと
どんな大変なことも 軽々と超えていけるような
そんなやつになりたいと 今はもう思わない』
ライブをするようになって、最高だと思った。
アヤに会って、大事にしたいと思った。
けど、それでも優里への思いが、消えることは全然なくて。
『重たいのは 生きているという証
これは命の重さ』
今では大好きになった音楽や、アヤさえも。
まるで優里から逃れるための道具のように、ぼくは使って。
『風のように 軽々とでなくていい
飛べなくてかまわない
この命と 向き合って生きていく
そう決めたんだ だから』
もうわかっている。
この歌のようにまっすぐには、ぼくは生きられない。
絶望の涙が流れる中、ぼくは歌った。
最後のフレーズを。思い切り。心を込めて。
『――俺は風のようでなくていいんだ』
ワアッ!
演奏が終わって、歓声を浴びて。
快感にも似た歓喜が体中を駆け巡る。この瞬間、優里への思いからも完全に開放されて、ぼくは最高にハイになっていた。
けど、あともう少しすればまたあの狂おしい、決してとげられない思いがぼくを絶望させることになる。
SEX & LIVE.
とてもよこしまな気持ちで、ぼくはこれからもその二つを求めるんだろう。
愛してる。そんな、自分の中のいちばんピュアなはずの思いが、結局他の何もかもを狂わせていく。
けどいいや。今こうしていて、ぼくはとてもハッピーだから。
体を満たす甘い痺れに、今はただ身をゆだねて。
SEX & LIVE. 絶望を忘れさせてくれる、ぼくの最高のドラッグ。

コメントしてください

Trackback Information

Contents Menu
